五月晴

胡座して緑陰講座晶子考

訪れた民博公園でたまたま古民家イベントが行われていた。

古民家イベント

内容は、日本の民俗をきく「第2回与謝野晶子のくらしと歌」と題する歌人による話である。
着いたときにはもう終了間近で、ほとんどを聞き漏らしたが、晶子が堺出身ということを知っただけでも覗いてみた甲斐があったというものだ。

それにしても、今日は絵に描いたような「五月晴」で、しかも湿度が低くて開け放した古民家を吹きぬける風の心地よかったこと。

通し土間抜けて古民家青田風

真言を唱ふ

梅雨冷の膝を庇ひて百度踏む
梅雨冷の膝に百度をためらひぬ

太ったせいもあるんだろうか。

最近ときどき正座するときなど膝が痛くなることがある。
若い頃に痛めた膝が、このような梅雨時とか、季節の変わり目などに痛くなることがあったが、ここ数年は忘れてしまうほど感じなくなっていたのだが。
ちょっと運動に無理しただけでこの始末とは、いやはや情けない。
おかげでここ二三日は胡座の姿勢で心経を唱えさせてもらっている。

湿気地獄

回覧板回し廻され梅雨じめり
枚数の多き回覧梅雨じめり
留守の間の封書葉書の梅雨じめり
状差のものみな垂れて梅雨湿り
鉛筆の細く削れず梅雨湿り

毎日毎日、梅雨がらみの句ばかり。

空気が乾いているということがどんなにいいことか。
この時期にいつも思うことである。
H以下の硬い鉛筆だって繊細に削れるし、紙のすべりもいい。
通勤のワイシャツだってしっかり糊の腰が残っているし。
梅雨で何が嫌だといったら、このワイシャツやズボンが湿って折り目が消えるどころか皺だらけのしどけない姿になることだった。
そんな湿気地獄からも解放された今は、一日中Tシャツでいられる幸せに浸っている。

災害とインフラ

大出水恃みの井戸の冠水し
早退の機を逸したる出水かな
早退の出鼻くじきし出水かな
早退の帰路を塞ぎし出水かな
入居者の避難急なる出水かな
入居者の避難に暮れし出水かな
校庭に出水見舞ひの飯を炊く
一族の田地田畑大出水
城下守る堤の外の出水かな
町ぐるみ水攻め受けし大出水

新興住宅地が軒並み水害に見舞われたシーンは痛ましい。

昔は人が住んでいなかったような低い土地、田圃などに進出した結果、当然のことに水害に弱い土地が増えてきたのである。治水が容易ではなく、川が暴れるままに任せるしかなかった時代の人たちは、経験上水の来ない高い土地に住むのは当然だし、井戸などを利用して飲み水もうまく手に入れる知恵もあった。

ただ、最近のように雨量が100ミリを超えるのが常態化してくると、高い土地にも洪水は押し寄せ、土砂崩れの危険がさらに高まるようだ。
井戸など重宝していた古くからの家も、井戸が冠水してしまっては後片付けにも、飲み水にも使えない。電気、ガスなど恃みのインフラに被害があればさらに復旧は遅れる。

暴れ梅雨

島ぐるみ川となりたる男梅雨

八丈島よりさらに南方の孤島に時間あたり80ミリ超の雨量があった。

もともと島全体がカルデラで、急な川筋が何本も走っているが、届いた映像では至る所で滝のように水が走っているのが確認できる。
九州では時間150ミリという想像も出来ない雨が降ったとか。
男梅雨などと粋がってはとてもいられない、命に関わる梅雨である。

これといって

父の日の父の子古稀になりにけり
父の日やいつしか父に長らへる

一昨日は父の日だった。

どうも父の日は影が薄くて、自分も父には特に何もお祝いした覚えはない。
特に、父と息子とはもともと通い合わせる会話も少ないし、高度成長期の子は成人すると家を離れることが多いのでますます会話は少なくなった。父は比較的早く亡くなったので、大人同士の会話の記憶はわずかしかない。

かくして親の因果が子に報い、ではないが、いつものことながら「父の日」と言っても普通の日と全く変わらない一日で終わるのだ。

適量

雨乞ふは汝のみにあらず雨蛙

夜になっても蛙の声が聞こえてくる。

近くの田圃からのようである。
そのせいだろうか、ここ数日雨のよく降ることと言ったら。梅雨本番というところか。
田植えが終わってたっぷりの水が欲しい田圃にとっても、雨は望むところ。
首都の水瓶も雨が欲しいだろうし、出水の被害が出るような雨は困るが、欲しいところに欲しい量だけ降るのが理想だろう。