屑藁の濃きうすきをく刈田かな
稲刈りが終わって急に寂しくなった田。
コンバインに切り刻まれた藁やら、早いところでは籾殻さえも置かれているところがある。これらはいずれ冬耕、荒起こしによって鋤込まれるのであろうが、水鳥も来ない刈田となっては冬は長い。
この辺りは二期作もなくこのまま冬を越すので、静かなしずかな棚田の景色が広がるのみである。
めざせ5000句。1年365句として15年。。。
屑藁の濃きうすきをく刈田かな
稲刈りが終わって急に寂しくなった田。
コンバインに切り刻まれた藁やら、早いところでは籾殻さえも置かれているところがある。これらはいずれ冬耕、荒起こしによって鋤込まれるのであろうが、水鳥も来ない刈田となっては冬は長い。
この辺りは二期作もなくこのまま冬を越すので、静かなしずかな棚田の景色が広がるのみである。
道の泥掃いて収穫仕舞ひけり
棚田は第二弾の採り入れ日だったようである。
棚田の各田を廻るごとにコンバインの音が響き、今日だけでいったい何枚の田を刈ったろうか。一台のコンバインが棚田を順繰りに採り入れていくということは、レンタルあるいは委託の稲刈りであろう。
午後五時を過ぎるとさすがにうす暗くなってようやく終了したようで、最後は各田を巡るたびに一般道を走るコンバインが落としていった泥を丁寧に掃いて今日一日が暮れていった。
寄道を知らぬ下校児ゐのこづち
ゐのこづち昭和は遠くなりにけり
小学校から集団下校の子供たちがやって来る。
シニアの見守り隊に引率されて、おおむね皆おとなしく列を作っている。
このままあらかじめ決められた道をたどって家に着くのだろう。
こうした光景を見ながら、記憶は遠い昔をたどる。
めいめい仲のいい連中と連れだって、ときには道端のものに興味を示したり、道連れしたり、あるいはこの後一緒に遊ぶ約束をしたり、とにかくおとなしく帰るだけでは済まなかった日々を。
この時期外遊びすると服のあちこちにゐのこづち、通称ひっつき虫をつけてきて、玄関前などで頑丈なやつをはがしてから家の中へ入ったものだった。
これを互いに投げ合って相手の服に命中させる遊びもよくやった。
昭和はもはや記憶の遠いかなたにある。
例祭の幟や秋の旧参道
十月の第三土曜日〜日曜日は当町の龍田大社の秋期大祭。
これに合わせて地域の町のお宮でも例大祭が行われる。
そして各地区からは太鼓台を主としただんじりが出され、地区を巡回したあと大社に宮入する光景は一見の価値がある。
万葉の頃からの古い街なので当時の旧道も残つており、九月に入ると狭い旧参道をはさんで例大祭の幟が各戸にたって、ああもうそんな時期なんだと教えてくれる。
秋の例大祭は、豊作への感謝の祭。いわゆる村祭が大社を中心に各地区いっせいに行われるのである。
地区の太鼓台がお宮に戻る最終日各地区で盛大な打ち上げが行われ、夜まで各宮は皓々と灯がともされるのはいかにも豊年祭というにふさわしい。
植木屋の柿の枝葉に目もくれず
どこの家も柿の木が色づいてきた。
今年は太り始める季節に暑くて雨も少なかったせいか、出来はもう一つという感じか。
店先に並ぶのはそこそこいいようであるが。
やはり、きちんとした技術がないとあのような立派なものにはならないということか。
わが家のは今年は裏年であるようだが。
右ばかり減るサンダルの草の露
ちびたサンダルに朝露の草がこびりついている。
庭履きにいいサンダルというのはなかなか見つからないもので、結局毎回安物で済ましてしまうのだが、大体が底がフラットだから雨後など濡れたまま玄関を汚してしまうことになる。
せめてゴム長のようにソールに深い溝を切ってくれてればこんなことにはならないのだが。
今日もホームセンターで探してみたが底のパターンはどれも満足いくものはなかった。
当町はもともとサンダルが特産のようで、かつてはあの便所のサンダルが全国トップシェアを占めていたとか。今では鼻緒などあれこれデザインを凝らしたものが自慢のようだが、ソール裏面のグリップまで気のきいたものは聞かない。
検査なほ病名知らずうそ寒し
骨密度落つとふ電話うそ寒し
今年に入って知人が立て続けに病に伏している。
ひとりはこの一月から臥せておられたが、このほどようやく外出できるようになったとのこと。ただし、治療は継続して受けておられ、人との接触も遠慮されているようで、手放しでは喜べないようである。
また或るひとは、原因不明の目眩や発熱が続き、いろいろな機関で検査してもらったがいまだに病名が知れず、そのため本格的な治療にも進めないまますでに二ヶ月以上は経過している。
お歳はおふたりとも私と同じ七十代だが、この年齢になると体に変調がきたしても不思議ではない。
今日はさらに、家人の電話が聴かずとも聞こえてきたなかに「骨密度」というワードが聞き取れた。平均の半分のレベルまで落ち込んできたとのことで、心配でならない様子である。
人はみな誰もが老いる。誰もが避けて通れない道なれば、あらがってもどうしようもないことだって多くなるだろう。いつかこの身にも起きる、そのときになって慌てないよう、ふだんから修養するしかない。