天空のわたの原なる鰯雲
鰯雲かうろこ雲か。
その区別について今まであんまり考えたことがなかったが、やはり俳句をやるようになって気になり始めた。と言うのも、歳時記には鰯雲があっても鱗雲がないのだ。
しかし、雲をよく観察してみると、実は同じ雲の形なんだが、見立てによって呼び方が違ってるのに過ぎないことが昨夜寝床のなかで気づいたのだ。
雲片を一匹の鰯とみなしてその群れている様子が鰯雲。
逆に、雲片を鱗とみれば雲全体が一匹の魚に見えるうろこ雲。
分かってみれば単純なことだが、今さら気づくというのは今まで物事をいかに散漫に見てきたかと言うことだ。俳句がちっともうまくならない理由の一つがこれだったのにちがいない。
ちょっとでも上達したければ、人の倍あるいはそれ以上の努力で物事に向かい合うこと。そして気づくこと。これに尽きるのではないか。
その気づいたこと、驚いたことを言葉で言い得れば詩が生まれる。
何事もそうだろうが、散漫からは新しく得られるものはない。逆に、見ようとして対すれば新たな面が見える可能性があるということだ。