法師蝉も

本尊を遠巻きにして蝉時雨

浄瑠璃寺の池の東方の一段高くなったところに三重塔がある。

丹塗りが大変美しい国宝である。
ここに本尊の薬師如来像が納められているが、吟行当日は公開されてないので外から拝むことしかできない。
後背の山からは遠慮がちな蝉の声。なかには法師蝉も混じっているようである。

大きな紅葉の木の先端はすでに紅葉が始まっているようで,丹塗りの塔を借景に透けるように美しい。

杓子定規もどうか

出るまでは入れぬ冷房始発バス

社の規則なんだろうが少しは融通があってもよくはないか。

炎天下に列を作って始発バスを待っていたのが、いよいよ来たというので乗り込んではみたものの、イドリングストップというんだろうかエンジンを切るので冷房も送風も全くない車内に取り残されてしまった。
5日連続猛暑日という記録的な暑さに、出発まで5分とない短い時間でも車内の温度はうなぎ登りに上がり汗が流れるように吹き出してくる。

エコバスの羽打ちせわしき扇子かな

それでも、句会メンバーだけで満席のバスでは扇子が波打った。

昼の虫も

荘厳を排し涼しき九体仏

今日は36度予想のなか浄瑠璃寺への吟行。

奈良の市街を離れ京都南端の当尾(とうの)の里にしずもる寺の境内に入ると、大きな浄土池もあって幾らか涼しくて救われる思いがした。
平安貴族によって九品往生の思想がひろく信仰され多くの九体仏が作られたが、当時のものが現存するのはここ浄瑠璃寺だけで、本堂、九体仏とも国宝という見かけからは想像もできない何とも豪勢なお寺である。

掲句の荘厳(しょうごん)というのは、仏の頭上に天蓋をかけたりしてして飾ることを言うが、ここの九体仏さんにはそのような飾りはなく、建物自体も天井板を張らず屋根材が丸見えの質素なしつらえである。九体の如来さんたちがその薄暗い本堂に半眼を開いて着座されていて、外の炎暑はどこへやらしばし涼しいときに満たされる。

吟行を終えてバスを待つ間、蜩が見送ってくれた。もう秋はそこまで来ているようだ。

蒸せる街歩き

片陰に老母いざなひ二人旅

片陰を選んでもコンクリートで固められた街を歩くのは容易ではない。

それでも、直接陽に当たるよりかは幾分かは救いとなる。
奈良町などではさすがに真昼時は人通りがすこしばかり減るが、この街を目当てにくる観光客も多く、路地から路地へ少しでも陰を選ぶように散策しているようだ。

掃くのが日課

沙羅落花朝な夕なの往き帰り

玄関の姫沙羅がまだ咲き続けている。

姫沙羅というのは一般の沙羅とはちがって一日花でもなく花も小さいが、数多く芽をつけて咲くようである。どちらかといえば地味な花で、花よりもむしろ幹の肌の色、滑らかさを愛でる木であるらしい。
いっぽう旧居では沙羅だったので、椿のような花が咲いてはすぐにぽろぽろ落ちて、玄関から道路にこぼれたりするのを眺めては毎日出勤し、帰宅したものである。

建前に振り回される

リクルートスーツ行き交ひ黒き夏

オワハラとか言うへんてこな言葉が喧伝されている。

表向きは今日の八月一日解禁のはずが実際には早くから内々定なるものが出されていて、学生を確保したい企業が別の企業を受けることを妨害するための言質をとろうとする行為である。
八月解禁というのは、学生の本分たる勉学に割く時間を確保するのが第一義であったのが、それがためにかえって学生を苦しめているという皮肉な結果を生んでいるわけだ。
どこよりも優秀な学生を確保しようとする企業の本音は時代が変わろうと不変で、就職協定というのは守られた試しがない申し合わせである。

こうして、建前に振り回された学生が酷暑の中を黒いスーツとネクタイに身を包んでビジネス街を行き交う始末となったのはなんとも気の毒である。

潮水で洗うだけ

業物は手包丁なり沖膾

夏休みに訪れた友人の親戚は漁師だった。

あさから舟を出しボート遊びに興じていたが、やがてそれにも飽きた友人は海に飛び込んだ。戻ってきた手には鮑が載っており、さっそく手でさばいたと見るとそれを海水で洗いそのまま口に運ぶ。お前も喰えとばかり囓りかけの鮑をもらったが、醤油も山葵もなにもつけない身は潮水との絶妙なマッチングで、こんな旨いものが世にあることを初めて知った。
以来、寿司屋に行けば鮑は必ず頼むが、さらにその腸がまた格別旨いものだと言うことも大人になって知った。
ただ、食い過ぎるのは尿酸値にはよくないと聞いてからもう随分長い間遠ざかっているのはちょっと寂しい気がしないでもない。