秘伝のたれ

鰻屋の垂れを練るとて人寄せず
一徹の鰻の垂れを練りにけり
相伝の鰻の垂れも三代目
鰻の暖簾垂れを守継ぎ三代目

たいそう繁盛しているのに支店を出さない鰻屋がある。

なんでも「垂れ」の調合は一子相伝の秘伝らしく長男にしか受け継がれないため、兄弟や姉妹がたくさんいても暖簾分けをしないのだと言う。
おかげで店は厨房、フロア、通信販売、会計それぞれ兄弟や親戚一同の力で支えられ、結束力も高そうだ。

ただ、ここ数年の「垂れ」はやや濃いように感じて仕方がない。最初は夏だから塩分を濃いめにしているのだろうと思ったが、その後も同様なのでもしかしたら代替わりによって微妙に変化しているとしたら心配だ。
それとも、減塩食に馴染んだ舌のせいで、外で食べるものを濃く感じてしまうだけなのかもしれない。

恬淡と

夏至の日の腕に時計のなかりけり
ノー残業夏至の巷の火照りして
夏至の日や明日より残照惜しまんか
夏至の湯を日のあるうちに立てにけり
夏至の湯に浮かべるもののなかりけり
夏至の湯に白きブリキの船もがな

夏至の日を理由に時計を外したわけでもない。

俳句をやるおかげで、暦、二十四節気、七十二候など季節のものには心動かされることが多くなったが、通勤電車とも無縁だし時刻そのものに左右される機会は明らかに減っている。
外出するとき腕時計なるものを巻かなくなって久しい。必要ならば、どこに行くにも必ず持っているだろうから携帯電話で見ることができる。
第一、この暑さである。皮バンドなどとても不快な代物で、これを金属のものに替えたところで、手首の辺りがジャラジャラしてはかなわない。
この季節、適度に灼けた半袖の腕がむき出しになる。その腕には何もなにも身につけてないし、その手首にも時計の跡すらもない。この季節だからこそ見えるシーンではないだろうか。

歳をとっていいと思うことは、どこに行こうと身につけたり携帯したりするものが少なくて済むことである。その恩恵を最大限に活かさずして何の毎日であろうか。
腕時計にかぎらず、ものに頼らず、名からも己を解き放って恬淡とした日々を過ごすのが願いである。

夢の跡

一と目では墳墓と分かぬ茂かな

奈良盆地は墳墓だらけ。

王陵はもちろん、渡来人含めた大小の豪族の墳墓があまた点在する。
クルマで走っていても、こんもりした形をみると多分古墳だろうと思われる箇所が多いが、あまり解明されてない丘などは夏の木、夏草に覆われて果たして円なのか方なのかさえ見分けがつかないほである。
ほとんどの古墳では埋葬者さえ定かでなく、新しい発見や見解が出されるたび古代史ファンとしてはわくわくする。

古代といえば、最近大阪高槻のほうで、弥生前期の頃の水田の跡と墓が見つかったという。環濠が形成され定住がはじまった頃とされるが、それはまた収穫した作物を収奪しようとする集落の争いの歴史の始まりでもあった。幾度も争い、吸収し吸収される過程でユニットが大きくなり、やがてヤマト政権につながっていったのであろうか。
古墳を見るたびに、あたりに君臨した主を思い、従った民を感じるのである。

鮎に見る列島模様

鮎宿の素泊まりにして解禁日
毛針巻く鮎の解禁待ちきれず
届きしは尺で知らるる川の鮎
望外のツ抜けとなりて鮎解禁
鮎宿の嫁の軒より竿出して
鮎宿の嫁の竿出す軒端かな
串打は伯父の直伝鮎を焼く
婆今日も夕餉の菜と鮎を釣る
鮎の滝飛ぶを待ちゐる網の漁
泳ぐ鮎捕ってはならず笠網漁
飛ぶ鮎は捕ってかまはず笠網漁

楽しそうである。

鮎は食うより獲る方がである。
句もまた食材として詠むよりも、春から秋にかけて移ろう釣や網や簗などを捉える方が動きがあるので幅が広がり面白くなる。逆に言うと、鮎を食う句というのはシーンの設定をどう詠むかにかかっていて上級者向きとも言える。
この鮎に関わる季題は多く「鵜飼」、「魚簗」など漁法に関するもの、年魚として「若鮎」「鮎汲」は春、「落鮎」は秋など、季節に応じた生態をめでるものがあり傍題も相当数ある。
最後の三句の「鮎滝の笠網漁」は愛知県新城市の豊川支流で行われている漁。水の中を泳ぐ鮎は捕ってはならず、滝をのぼろうとする鮎が水面から飛びだすときを狙って笠のような網を指しだして掬う漁である。ところ変われば鮎とのつきあい方も様々で、昨日の「鮎占」もそうだが、この多様な列島模様がいい。

ここで「ツ抜け」とは、釣用語で釣果の数を言うのに「ツ」を使わなくなる十以上という意味である。
一ツ、二ツ、三ツ、。。。
これが百を超えると「束釣り」と言う。「一束」とは百のこと。
釣には釣のまた奥深い箴言がある。語り始めると終わらなくなりそうである。

おんべまつり

宮川の鮎宣はす神事かな
宮川の鮎の宣託受く神事
鮎占の神事に凶の出たるなし
祓はれて吉凶占ふ鮎となる
祓はれて神さび勝る鮎となり
宮川の鮎の神託申しけり
大吉と出でて歓声鮎占ひ
宣託の鮎放たれて神事果つ

三重県大紀町水戸神神社の鮎占神事である。

毎年7月第一日曜日に行われ、一年の商売繁盛や家内安全、または豊作や大漁を占う。正式には「おんべまつり」と言う。
あらかじめお祓いを受けた鮎を宮川上流の大内川の渓谷の洞に投げ込んで、うまく入れば「大吉」、岩にバウンドして入れば「中吉」、外れても「小吉」という託宣がくだる。これを月の数だけ行って何月は大吉、何月は中吉というふうに決まって行く。

この神事が行われるのは伊勢神宮の別宮・瀧原宮のある瀧原である。南紀方面へは今は高速道路もできて、名古屋から尾鷲へ行くにも何時間もかからずに済むようになったが、若い頃は国道42号線を延々南へ走らせたものだ。
しかし、昭和40年代前半に整備された当時から、国道はこの瀧原宮があるところだけは珍しくストレートな道になっており、なにやら立派なお宮があるなあという程度の認識しかなかった。だから古代史などをかじるようになってこの神社の由緒を知るようになってからというものは、大杉が覆っていた厳かで立派な神域にいつか立ち寄って見たいと思うようになった。

そんな折りに、言葉だけは聞いたことのある「鮎占神事」が実はこの近くを流れる宮川の渓谷で行われていることをテレビで知った。それが「おんべまつり」だった。
澄んだ渓流の鮎も味わいたいし、一度は拝観したい行事である。

峠の牧

夏燕四角に牛舎くぐりけり
黒南風や牧の泥濘ただならず

今日は三重県境にある里山に吟行した。

九十九折の山道をたどると、峠近くからは露湿りの風に牧の匂いが混じってくる。
やがて売られる運命にある牛たちの牛舎に近づくと、その匂いがさらに強くなった。

見渡してみると、雨が近いせいか燕が数羽しきりに低く飛ぶ。
開け放たれた牛舎のなかに飛び込んだかと思うと、そのまま直線にではなく直角に曲がってくぐって行った。

行基さん

御像の噴水に立ち托鉢す

近鉄奈良駅頭の行基菩薩像の噴水である。

近鉄奈良駅頭の行基菩薩像噴水

行基さんは広く民衆に仏の教えを説いたり、社会慈善事業などをおこなったほか、東大寺大仏建立の責任者として広く慕われていて、呼び捨てにするのは地元の人ではないと言われるほどの人気である。行基さんの視線に先にあるのは大仏殿。今も見守っていられるというわけだ。
この噴水像は待ち合わせには格好のポイントで、吟行時にもよく利用させていただいている。
ささゆり祭の前日、大神神社豊年講の皆さんによる奉献行列も途中ここで一服を入れておられた。

豊年講によるささゆり奉献行列

また、地元小学校の4年生くらいの一団も来て、先生から行基さんの解説を受けたあとしばらくは写生の時間のようだ。ここでも無論「さん」づけで呼ぶように先生が教えているのが印象的だった。

様々な国からさまざまな人たちがここを通るが、この日は噴水を背にして托鉢に立つ僧がいた。ときどき片足重心になったりして長時間の托鉢に耐えておられる。通りがかった人もお布施して、そのあと行基さんに向かって深々とおまいりするごく自然な姿を見るとどうやら地元の人であろうか。