尊厳と誇り

蒲公英や仮設暮らしを強いられて

三回目の3・11忌である。

もう4年たったのだから国家予算に頼らず自助努力で復興を成し遂げよと言う閣僚も出るに及んでは、リーダーの「被災地に寄り添う」とのメッセージもどこかむなしくうつろに響く。
遅々として進まない被災地の復興。現地の人の尊厳と誇りを第一に優しく包み込む施策はこの先も欠かせない。

放逐されたものたち

啓蟄や六畳の間の盆鉢に

先月から虫が活動を始めている。

室内に入れた鉢に冬眠していたのが、天気がよくて室温が高くなるとボツボツ出てくるのである。目覚めたとき、あるいは寝ようと思ったときに壁やベッドに這いつくばっているのが目立つようになる。
とくに厄介なのがあのカメムシで、箒で掃いたりしては退散いただく日が続く。

この3月を待たず外に放り出された虫たちのその後は杳としてしれないが。

部屋咲き

君子蘭房の先より緋を灯し

冬の間部屋に取り込んである君子蘭の花芽がいよいよ伸びてきた。

早いものはふっくらした房の先端から色づいてきている。まもなく花弁が開いて炎のような花が咲いてくれそうだ。例年なら部屋に取り込むのを遅くしているのでこの時期はまだ蕾すら見せないのだが、今年は部屋で暖かくしていた時間が長かったせいだろう、世間並みの時期に咲きそうだ。

20年ぶり

侮りて思いの外に春の風邪

3日ほど前から喉が痛かった。

家人は花粉ではないかと言うが、この痛みはやはり風邪によるものだとは思っていた。のど飴などでだましだまし過ごそうとしたのだが、徐々にひどくなってきて嚥下するのも辛くなってきたのが昨日。今日は吟行の日なので昨夜はマスクをしたまま早めに寝たのだが、起きてみるとどうもふらふらして声を発するのも辛いとなってはもう欠席するしかない。

風邪でまる一日寝込むというのは実に20年ぶり。さては油断があったか。
夕方までたっぷりベッドで時間をすごし、夕食はおかゆ。食欲はあるので明日はもう大丈夫だとは思うが。

五感の春

花の寺木々の芽ぐみの辺り満つ
花の寺名を負ふ木々の芽ぐみけり

奈良は一斉に木々が芽ぐみ始めた。

今日の雨は言ってみれば「木の芽雨」。芽ぐみをさらに促す雨である。
梅も後期に入って満開状態。梅は咲き始めをもって良しとされるが、満開時のむせるような香りもまた梅の楽しみ。
目から鼻から耳から,五感を使って春を楽しもうではないか。

机上

春塵の小口になじむ初版かな
春塵や書架の小口のことごとく

日中窓を開けるようになった。

机の上に積んだままの文庫本やら新書本など、久しぶりに開こうものなら何やら埃っぽい。アマゾンで買った谷崎の「吉野葛」など中古本だったせいか小口の色も煤茶け、活字の小さい初版ものだったりする。こうなると弱った老眼には手に負えなくてまた元に戻したらそのままさらに埃をかぶることになる。

膚で感じる

靴裏の凹凸たのし青き踏む

もう下萌えのシーズンは過ぎて青草の春である。

舗装された道路はどうしても固くて弱った足腰には響くものだが、土の上をあるくと足裏にも優しく感じる。
これは山でも感じるもので、木の根などが顕わになった山道などを歩くのは適当な刺激があって体も喜んでいる気がする。
今は河川敷を好んで歩いたり、堤防でも舗装部分ではなく土の部分を選んで歩くようにしている。この時期になると草の丈も伸びて足裏にはさらに優しくなり、草の株を踏んではその凹凸感も楽しみながら距離を延ばしている。