嗅覚の春

風止んで匂ひたちたり春隣

風止みて 土の香のぼり 春隣

春の知覚は視覚よりも嗅覚のほうが勝っているのではないか。

古い農家の前を通りかかったとき、一瞬間であるが春の土の匂いがしたのだ。この匂いは土の種類が違っても関東のものと同じで、同時に懐かしさや親しさも感じるものであった。
確かに冬萌えなど寒の中に春を見いだすこともあるが、それはあくまで心象や「願望」としての春にすぎないものだ。対して匂いというのは、たとえ局所とはいえその場の空気そのものが具象としての春になっているのではないか。

顔を上げて

冬萌や胸を反らせて歩みけり

桜や楓の枝など確かめながら歩いているが、膨らむのは当分先になりそうである。

ただ、その中に微かに芽を膨らませ始めたのを見ることができた。木の名前は知らないがやや黄味がかかった小さめの芽だ。もうすぐ開花するのではないかと毎日その場所を通るのが楽しみだ。
寒いからといって首をすぼめていては冬萌には気づくことができない。顔を上げて歩こうと思う。

寒の極みの時期だが、七十二候で20〜24日は「款冬華」(ふきのはなさく)である。雪の間から顔を見せる蕗の薹をみたことがあるので、決して誇張ではないと思う。春はもう、すぐそこに来ているのだから。

日本人横綱はいつ

初場所を話題に髪切る鋏かな

老人が理髪店まで息子(と思われる)の車で送られてきた。

亭主がいろいろ話しかけて分かったことだが、御年99歳、間もなく100歳だと言われる。兄弟は皆死んで残ったのはとうとう自分一人だということ、最近の相撲は全然見なくなったこと、その理由は外人力士ばかりふえてちっとも面白くなくなったこと、むしろ三月が待ち遠しいこと、甲子園やらプロ野球やら野球が始まるからだということ、それまではじっと我慢だと話し込んでいるうちに息子さんが迎えに来てくれた。
椅子からしっかり立ち上がり、ドアの外へも誰の手も借りず出て行かれた。

今年の野球をフルシーズン楽しまれること間違いない。

餌付人?

餌とみて袋に寄り来緋鳥鴨

いつものように川縁を歩いていると、ヒドリガモの群れが一斉に私に向かって飛んできた。

今日は散歩の途中で寄った書店の袋を持っていたせいではないだろうか。
どうやらパンなどの餌をくれる人は袋を持っていることが多いので、餌をもっていると勘違いしたらしい。その後も岸に沿って私に付いてくる。さすがに50メートルほどいくと「なあ〜んだ」とばかり元の対岸に向けて戻っていったが。

飛鳥美人にご対面

大寒や飛鳥貴人が極彩美

大寒の今日、飛鳥歴史公園に行ってきました。

同敷地内にある高松塚古墳修復作業室がこの時期一般公開されるからです。
黴取りなどの修理中、六面全16枚の石壁が約20メートル四方の厳重に管理された部屋に並べられているのを、2重になったガラス窓3カ所から見学できる施設です。壁画そのものは歴史的、美術的に価値が高いとして国宝、したがって文化庁管轄で修復作業が進められています。
専門的な技術をもった職人さんをもってしても、一日1平方センチ、多くても2,3平方センチほどしか進捗しないという気が遠くなるような作業です。
1300年の眠りの間、土の中の石室は地震によるひび割れなどで徐々に浸食が進んでいたのですが、昭和47年に発見されて以降さらに劣化が進み、平成19年から約10年かけて解体修理することになったということです。
壁画劣化という手痛い経験とその対応をほかの遺跡保護のために生かしてもらいたいものです。

鳥が来る日

この庭の何処に餌ある寒雀

庭はすべてが枯れて何もないように見える。

それでも毎日どこからか数羽の雀がやってきて、しばらく地面をつつきながら何かを啄んでいる。決まったように10秒くらい繰り返すと去って行くが、入れ替わりに鳩が来るときも有るし、今日などは椋鳥が3羽ほど行進していた。
面白いのは、鳥が来る日というのはやはりいろんな種類の鳥たちも多くやってくるという具合で、鳥類にはどこか共通した行動生理、原理が有るのかもしれない。椋鳥が去った後はジョービタキ君がフェンスの上に止まってくれて、テールダンスをちょっとだけ披露してくれた。

雪を生む峯

雪雲を繰り出す峯の暗きかな

今日は終日信貴山おろしにのって雪が飛んでいた。

大阪を渡っているときは普通の雲でも、生駒山系を越えるときに冷やされて雪雲になるのかもしれない。いずれにしろ信貴山の方角からつぎつぎと黒い雲が現れては雪が風花となって飛んでくるのだ。黒い雲に覆いつくされた信貴の雄雌両山は、陰になってしまうせいかよけいに黒々と見える。