葉の落ちて零余子小さきものばかり
大きくても小指の爪くらい。
誰も採ろうとしない零余子が、葉を落として蔓ばかりとなった枝にしがみついている。
ていねいに採れば二人分の零余子飯にはなりそうだが、今どきそんな細かいことをやる人がいないのであろう。芋を採るのが目的だからその実は見向きもされない。こんな状態がしばらく続いている。
やがてこの実が落ちれば再来年ごろには新しい実を落とすかも知れない。毎年毎年そんな繰り返しが続けられているのである。
めざせ5000句。1年365句として15年。。。
葉の落ちて零余子小さきものばかり
大きくても小指の爪くらい。
誰も採ろうとしない零余子が、葉を落として蔓ばかりとなった枝にしがみついている。
ていねいに採れば二人分の零余子飯にはなりそうだが、今どきそんな細かいことをやる人がいないのであろう。芋を採るのが目的だからその実は見向きもされない。こんな状態がしばらく続いている。
やがてこの実が落ちれば再来年ごろには新しい実を落とすかも知れない。毎年毎年そんな繰り返しが続けられているのである。
柿の木の虫も湧かざる裏の年
去年思い切って強剪定した柿の木。
太くて立派な枝が空高く伸びているが、蕾のついた結果枝もいさぎよく切ったため実がほとんどついてない。
そのせいか、虫も寄りつかず、おまけに葉っぱはそのまま柿の葉寿司に使えそうな健康そうなものばかり。
さて今度はどの枝を残そうか。
秋桜ハッチ開いて車椅子
室内はやや寒だが外は明るくて温かい。
終日空高くいかにも秋日和である。
通りのデイケアサービスセンターのアプローチにはコスモスが群れて、少しの風にも揺れる重たそうな花をいっぱいつけている。
いかにもの好天にコスモスというのはよく似合う。
今日は心穏やかな秋の一日をもらった。
風なくば誰か知らまし銀木犀
十月の半ばになっても香りが届かない。
だから、今年は咲かないのかと思っていたのだが、今日急に甘い香りが漂ってきた。
経験的に木犀と言えば九月末頃というイメージがあるので、十月も二十日近くに咲くというのはやはり今年の九月の異常な暑さがかかわっているのだろうか。
それにしても銀木犀のこの控え目な香り。つねの花よりはもちろん甘いのだが、金木犀に比べればほどほどの甘さと言おうか、嫌みのない、癖のない香りが好ましい。
もしも風が運ばなければ気がつかないほど、慎ましいのである。
惚茄子の尻は多産や種を採る
長さ30センチ近い。
ずしりと持ち重りのする尻はみごとで重さは通常の五倍以上はあろうか。
樹の上で約二ヶ月生らせて熟成させると茄子の特徴のあの紫紺が褪せ、尻が金色に変われば種の採りごろとなる。
なぜ種採りにこだわるかと言えば、その畑に適したDNAが種に受け継がれ育てやすくなると言われているからである。茄子などは春のまだ寒い頃に苗を育てるのが普通なので直播きすることはないが、5月ごろ直播きすれば発芽も育ちもよくなると言われている。げんに今年夏に採った人参をそのまま蒔いたら100%近く見事な発芽だった。人参の発芽率は七割と言われ、へたすれば全く発芽しないこともあって、発芽さえすればもうできたも同じというくらい発芽がむずかしい作物である。自家採取した種の力は侮れない。
今年も無事に育ったカボチャ、オクラ、ピーマン、シシトウの種が採れた。
畑は冬野菜の時期となった。
掛稲の緑うつろふ日和かな
稲架三日目。
早くも色褪せて茎も葉も籾も同じような色になってきた。三日続きの晴天で順調に乾し上がっているようだ。
苅りとった田はまだ序の口。短い日を逃さじとコンバイン、集荷軽トラが公道をせわしく行き来している。
豊の秋の光景はいつ見ても心和むものがある。
そして、格安のもみ殻くん炭を予約している農協からは、間もなく入荷の連絡が入るはずである。
笹子来て終の栖のらしくなり
第一声を聞いた。
しかも庭でである。
メジロ、ジョウビタキというのはよく来るのだが、鶯が来たのをこの目で見、耳で聞いたのは初めてである。
庭では折しもみぃーちゃんが昼寝をしていたので、もっと見ていたいという思いと早く逃げろという気持ちが交差してハラハラドキドキのしどおしである。
メジロなどは木の枝に止まって地上には滅多に降りてこないので安心して見ていられるが、鶯は地上低くを移動するのが常などでとくに心配となる。
しばらく笹鳴きをしていたが、こちらの気配を察したか、やがて声が聞かれなくなった。おそらく1分以内のごく短い時間だったろうが、それはかなり長く感じられる時間であった。
ちなみに笹鳴、笹子は冬の季語。今年の冬は早いかもしれない。