山田の中の

今風にファッション決める案山子かな

本格的な案山子というのは昨今お目にかかれない。

あるとすれば、それは村おこしの類いの案山子祭りだったり、単なるディスプレイにすぎなかったりする。
隔世の感があるのは、その姿形で、昔の案山子のイメージというのは童謡にあるような、いわゆる山田にあって一本足で顔は日本手拭いで頬っ被りし、目鼻口はへのへのもへじというのが典型であるのに対し、最近のは動物をかたどったものだったり、人間にしても実にリアルに作ってある。しかも形態が家族やグループであったりで、単にそこに立っているというのではなく、踊りとか何らかの動きが表現されていて服装もそれにあわせたものが着せられているなど実に多彩で、作った人たち自身が楽しみながら工夫を懲らしているのがよく見て取れることである。
なかには、人の着る新品のシャツとか着せてあったりするのにも驚かされる。

アキタコマチ

豊年の大地波打つ日和かな

羽後・横手盆地の秋は清々しい。

とくに北上から峠を越える道をたどって降りてゆけばゆくほどその感が強い。おそらくアキタコマチであろう穂波がどこまでも広がって、盆地が黄金一色に染まって光り輝くようだ。
今は高速道路が通じているのでじっくり楽しめないのが惜しい。9月末から10月初めにかけては是非一般道をすすめたい。すると今度は、国道に沿って果樹園,とくに林檎園がずっとつきあってくれる場所に出会うことができる。目がすっかり金色になっているところに、あの丸い玉が連なっているのを見ると、今度はその紅の深さに目が奪われてしまうのである。

横手盆地の秋は目の秋と言ってよい。

抜穂祭

神田の稲刈る鎌の鋭利なる

大神神社の抜穂祭をニュースで知った。

春の「播種祭」、夏の「御田植祭」に続く一連の行事の締めくくりとなる行事である。まずは神主が特別な鎌で三株刈り取ったあと、その葉をのぞいて穂だけを三方にのせて神に供える。
このあと行われる豊年講の人々によって刈られた稲は昔通りに稲架で天日に干される。これらの藁は新年の注連縄に使われるそうである。

南面す

病棟の窓辺の桜紅葉かな

病室の高さにちょうど大きな桜の木があって、それがむら紅葉になっている。

視線をさらに下に向ければ、足元に大和川、正面遥は葛城、二上山である。冷え込んだ盆地の空気は澄みきって、見通しがことの外良い。

点滴のパイプがまとわりついたままでベッドから外を見てても癒やされるシーンだ。

長い夜

点滴のままで髭剃る朝寒し

入院中に朝晩の気温が一段と下がったようだ。

何をするにも廊下を行けば、点滴スタンドがガラガラと鳴り響く。
造影剤を洗い流すための生理食塩水の点滴のせいで何度も用を足したりしなければならないから、深夜ならなおさら音だけが妙に大きく聞こえる。
点滴のパイプがずっと体にまとわりついているというのも鬱陶しい話で、寝返り打つときに巻き込みはしないかとか、詰まらせはしないかと恐れていると、案の定警告が何度もなってその都度目が覚める。起きればまた用足しに行くという具合にますます廊下を歩く回数がふえてしまう。

そうこうしてようやく長い夜が明けるというころ、看護士さんたちが血圧や体温を測りにくるので眠りはどうしても浅くなる。ひげそり中の鏡の中はボサボサ髪でひどい顔をしている。

小さい手榴弾

B品の侮るまじく瀬戸の檸檬
藻塩焼く島の檸檬の無骨なる

皮も厚くて見た目も無骨。

ところがである。食べて愕く味の良さ。
数年前に知人から分けてもらった檸檬の味を知ってからというものは、ぴかぴかに磨かれて見た目にも美しく黄色に光っている輸入ものをいっさい口にすることはしなくなった。

見た目が悪く市場には出せないというB品とされるものでも、その味は絶品。酸っぱいといっても丸かじりできるのだから不思議だ。
その小さい手榴弾を書店の棚に置きざりにするなどとは、とてももったいないことである。

予約投稿二日目。

銘菓・落雁

雁のけふを満たして落ちにけり

落雁というお菓子がある。

その由来の説にはさまざまなものがあるようだが、いずれにしても京や加賀のお菓子というのは命名からしても雅なものである。
いっぽう、鳥の雁というと、関西ではやはり琵琶湖が似つかわしい。奈良県には雁を養えるような湿原も水田もなく兼題で出されても、この目で確かめようがない。関西で目にするには時期的には今月末以降になるだろうから、その時期になったら近江八景の観光も兼ねて行くのもよかろうと思う。

検査入院中なので、念のため予約投稿である。予定では明日退院となるはずであるが。