食べきれない

風恋うて残暑ながらの床を出る

依然30度を超す日がつづく。

続くが、風があればなんとか我慢できる耐暑力はついてきたようである。夏バテを知らずこのまま一か月くらいなら持続できるとよいのであるが。
今年は二年目の畑の野菜もそこそこできて、毎日せっせと旬の野菜を摂っているのも効いているのかもしれない。また、この時期は桃や成しなど到来ものが多いうえに、大小の西瓜もよくできたおかげで大好きな果物が食べきれないくらい。
この暑さであるが、今年は体感的に秋を感じることもないまま冬に突っ込んでしまうのではないかと危惧している。自然のサイクルが狂ってしまって、何もかも過去の経験などが役に立たないことや思わぬことが起こりそうな気がしてならない。
どんなことがあっても自分を平静に保つことが今こそ大事なんだろう。

幽霊花

白昼に色失ひひぬ花茗荷

歳時記によっては「茗荷の花」と「花茗荷」は全く別の植物だそうである。

わがホトトギス歳時記では秋の季語として同一のものとされているのでそれによった。
茗荷自体が半日陰を好み、そのうす暗い足もとにいわゆる茗荷が顔を出すわけであるが、これは「茗荷の子」で夏の季語。地面から顔を出してそこから幽霊花のような色味のない花をつけるのが初秋の頃である。
一日花ということだが、花を天につきだしたように咲き誇っているのを見たことがない。きっと朝早く咲いてはお日様が上がるとともに萎れてしまうのではなかろうか。
まるで喇叭煙管のような花がうなだれているのしか見たことがない。花の色、形ともちょうど芒の根本に咲く南蛮煙管とそっくりである。色素をもたないので薄クリーム色のような、幽霊のような雰囲気をもった花である。であるから、これは虫を呼ぶような花ではなさそうである。根茎で増えるので受粉の必要もないはずなのだが、考えてみれば何のために咲くのか、よく分からなくなった。

河原石

魂抜いて縁なき地なり遠かなかな

生後十日で亡くなった。

一家は戦後の生きるに精一杯の暮らしに、その骨を父の実家の墓に鎮めた。一時的に預けたつもりだったのだろうが、そのまま長い年月がたった。
盆に行けば先祖の墓には必ずお参りしていたのだが、その墓は墓というにはあまりに粗末で五十センチ平方ほどの基石に河原の丸石がぽつんと乗っているだけであった。
子供心にもなんとも侘びしくて、それは寂しい墓であった。
妹の墓である。大きな地震が起きてその犠牲になったのだが、たまたま親戚に行っていた私は無事だった。
ある年大雨で山が崩れて墓地全体をさらうことがあった。その再建にも父母は不義理をして磧石の妹はあわれ無縁仏扱いとされていた。
後年それを知ったとき父の墓に入れると決めた。どこにあるとも知れない妹の霊にむかって魂抜きの法事を済ませ、幾ばくかの土を壷に納めてだいじに持ち帰った。
今は父母の墓に埋葬されて、ようやく親子の静かな時間が流れている。

オワコン

終戦日新聞とらぬ両隣

終戦記念日。

77年前のあの日。ラヂヲの前に正座して終戦を迎えた。
今はインターネットの時代となり、情報はあらゆる方面から飛び込んでくる。
そのせいか、比較的若い当団地では向こう三軒両隣とも購読紙はない。
そもそもテレビも見ない世代が増えているという。情報はもっぱらネット、娯楽作品ですらネットフリックスなどで好きなときに好きな時間だけ見られるサービスの人気が高い。
それだけマスメディアの影響力がうすれていることになる。社会の木鐸としての時代はもはや過去のものである。
あのNHKですら政府自民党の広報機関となりさがっては、だれがマスコミの言うことなど信じられようか。
真偽と混ぜて情報があふれるなか、良質な情報を選ぶのが個人にゆだねられている時代となったのである。各自の情報力を磨いていくしかない。
それにしても吉本系とコロナ死全国ワーストの知事の露出度が異常に高い関西のテレビはどの局も終わっている。実際のところオワコンである。

小菊

ふたかかへ供花にもあまる小菊来る

小菊の里として知られる平群からの到来ものである。

平群はとくに盆の小菊では有力な産地で、その畑から朝剪ってきた、まだつぼみも堅いびっしりと直径30センチもあろうかという束をいただいた。
盆花にして何基もの墓に供へることができるボリュームなので、どうやってこれを消化しようかと嬉しい悩み。
ぜいたくに使ってもまだ残るので、しばらくバケツで養生することとなったが、夏とは言え若い蕾なのでしばらくもつことだろう。

霊迎え

盆棚に知らずこぼれし香の灰

漆黒の棚に白い粉が浮いている。

線香の灰がこぼれたものだ。
いったい何時こぼしたものかとんと記憶にないが、何かのはずみで落ちたものであろう。
いずれにしても今日は霊迎えの日。きれいにしておかなければ。

卒寿近く

刈払機腰に払うて生身魂

かくしゃくとしてなお頑健。

昼間の暑いときは家にて麦酒。そして夕方になれば律儀に菜園に日参という日課である。
盆のこの時期も早々と夏野菜の片付けを終えて、はやくも秋冬野菜の準備に畝を耕しておられる。作る畝はまるで定規で測ったように美しく、だれも真似をできない出来映えである。
ときにはむずかるエンジンをなだめすかせては畔の草を刈る。
まもなく卒寿に届こうかとは思えない達者ぶりである。