折り合い

秋の蚊をどこ吹く風の猫の耳

夕方になるとわんさか出てくる。

ホースの腕に、如雨露の腕に、数秒動かないだけで小さくちくっとくる。
利き腕が空いてないから打つこともままならないが、それでも何匹かのうちの一匹は仕留めることができる。
いつものことだから腹を立ててもしょうがない。これからも蚊とのつきあいは長そうだから、適当に折り合いをつけていくしかあるまい。
居眠りしていても耳だけ器用に動かす猫を見習いたい。

当たり年

さう言へば体躯しつかり秋燕

ここのところ虹をよく見る。

ちぎれたような雨雲が盆地によく入ってくるからである。
それももっぱら盆地東半分を通りことが多く、西の端っこの人間からはよく見える理屈である。もっとも背後からの光が必要なので午後の時間である。夕立というものを長いあいだ見てないが今年はやたら多い。夕立の当たり年である。虹をよく見るというのはそんな理由からであろう。
虹に顔を上げると一羽の燕が悠然と横切っていった。体格はいつでも南へ帰れるくらい立派である。
今度は盆地に入ってきた大和川に沿って下ってゆくのだろうか。それとも南へ下って紀ノ川沿いにすすみ紀淡海峡を渡るのであろうか。長い旅路に十分に耐えられようと思われる。

普段着

どの家も部屋着さまざま遠花火

土曜日だったか、隣町だったか花火大会があったようだ。

対岸の丘の向こうに打ち上げ花火が上がる音が聞こえて、つられるかのようにどの家からも人が出てきてみな花火の方向に顔を向けている。なかには歓声をあげる子供もいて家族のいい思い出にもなったようだ。
7月末から8月にかけてこのような催しを各自治体が行うが、このあたりは大きな町ではないので、どこも時間は短い。最も短いのは五分くらい。市のクラスになってもせいぜい10分程度。
それがかえって気楽な催しで、みながそれぞれ花火を近くで見ようと押しかけることもないし、当然店も出ない。音が聞こえてはじめて花火だと知って玄関や二階のベランダなどから鑑賞する。暗いからだれも着飾ったりしない。
人が出なくてもコロナ禍にあっては自粛する向きもあったが、今年は当たり前のように戻ってきた。
小さな町ならではの夏の楽しみである。

かりん糖

刃を入るやばきっと西瓜割れにけり

ようやく第一号の大玉西瓜を収穫した。

音や色など慣れないと熟し具合を見極めるのは難しいが、どうやら許容範囲に収まったようだ。
小玉西瓜も今度は落果させることなく、ちょうどいいタイミングで収穫できたのは上出来である。成長途上のものもいくつかあって今年は満足満足。
果物好きの夫婦にとって西瓜はどれだけ食べても飽きないものの一つである。
今日は西瓜を堪能したあとかりん糖でデザートの締めとなった。

つきすぎ

秋立つや雲の震へるにはたずみ

今日は立秋。

暑さがこれから静まると言うが残暑はなかなか頑強のようである。
昨今は九月になっても残暑見舞が通じるくらい夏が長くなったものである。
そういう名かでもどこかには秋の気配を感じたいもの。
朝新聞を鳥に出ると、原付のカバーに昨夜降った雨が流れずにたまっている。朝のまだ涼しい風がそれを揺らしているようで、細かに水面が震えている。
秋と風はつきすぎと言うべきものだが、雲を持ってきてさらに凡句に陥ったか。

咲き継がす

朝顔や単身赴任の留守家族

小四の長男は、父の不在のあいだ芝生の水やり当番を引き受けている。

やんちゃ坊主だったが、この春からのわずかな時間できちんと留守を守っている顔に少し大人になってきた風がでてきた。
二つ下の弟にも兄らしい貫禄がついてきたようにも思う。
庭には学校から持ってきた朝顔の種を取り続けて毎年花を咲かせている。
今年も紫色の朝顔がネットに揺れている。

シャワー

盆棚の奥に鎮座の百味五果

新盆(しんぼん)初日。

いつものように桜井の副住職に棚経をあげてもらった。
到来の桃や、朝に収穫した胡瓜など備え、小さな仏壇も賑やかである。
駐車場から玄関周りまで念入りに草むしり、掃除。すっきりしたところでお迎えである。
その後はシャワーを浴びて身を清め到来を待つ。冷房の部屋でもう眠くてたまらないのを我慢。
昼寝の後二番手の胡瓜を植えに畑へ。ここで再び大汗をかいて今度はしっかり風呂で足腰を伸ばす。
時間を目一杯使った一日であった。