繰越?

打ち止めの大玉ずんと地区花火
地区花火果てて各戸の拍手かな
ブラタモリさなか始まる地区花火

ブラタモリの境港・米子編を興味深く視ていたら町の花火が始まった。

いつもあっさり終わってしまうので、テレビを気にしつつ窓の外を伺っていたらいっときの連発があり、その後は間遠になったので終わったかと思ったがしばらくしたらまた上がりはじめた。結局いつもの年の二倍か三倍の時間、十五分か二十分くらい続いたろうか。
その間何度かの連発もあり、腹にずんとくる大玉もある。
7月だとばかり勘違いしていたのだろうか、今年は夏休みの最終土曜に行われたことになる。コロナ禍で久しぶりの花火かも知れず、それで特別に予算を繰り越して小さな町としては豪華な夜になったのかもしれない。
打ち止めの一発があって、各戸から拍手が湧いた。
風呂上がりの家人は外に出るのを遠慮して窓からのぞいていたようだ。
子供たちのいい思い出になった夜であった。

観察

これやこの出穂いでほの道の香をすうて

ようやく穂が出てきた。

気づけばただよう空気にもどこかいつもと違うものを感じる。
夕方ともなるとおそい盆地の細田にも夏とは異なる風が流れる。
これより一月半すれば稔りの秋。
日々新しい景色が展開すると思えば、おおいに外に目を向け観察したいものである。

手がかり

たよりなき記憶身に入むテストかな

後期高齢者の免許更新案内がきた。

書状によるとまずは認知機能検査を受けなければならないらしい。
調べてみると、想像はついていたがこれはなかなかの難敵になりそうである。
一枚に四つの絵が描いてあって、これを四枚。合計十六個の絵を覚えるというものである。各一枚をそれぞれ1分間かけて記憶してゆくらしいのだが、この作業が終わると次はまた全然異なる作業をさせられる。要するに、記憶力の保持が一定時間保てるかどうかの試金石になるわけである。
そのあとで、さあ十六個の絵を思い出すだけ答えろというわけである。
若いときならともかく力勝負でくそ暗記もできようが、ついさっきのこともすっかり忘れてしまう齢ともなるとそうはいかない。警視庁サイトで絵が公開されているので、試してみたが一分間空回りするばかりである。
そこで少し焦る気持ちでさらに詳しく読んでみると、ワンセット十六枚の四組には共通するところがあって、それぞれのセットは十六のジャンルから成っていることが分かる。いわゆる「手がかり」となるものである。
イラストを暗記しなくても、この「手がかり(ジャンル)」さえ覚えておけばよさそうである。
『野菜・果物・花・衣類、家電・楽器に家具・道具、鳥に昆虫・動物も、食器・筆記具・乗り物に、体に武器は物騒だ』
七五調で舌に転がして覚えたらよさそうだ。
絵を見せられたとき、それぞれを手がかりに結びつければいいはずである。
検査はひと月先だから何とかなるだろう。

動き出す

秋めくや傾向線は右下がり

今週あたり気温が低めに出そうである。

週末に秋の停滞前線が居坐ることもあって、週頭から最高気温がだんだん下がってゆく傾向にあり、しばらくは猛暑日とされる35度には届かないらしい。
このまま順調に下がり続けることはないはずだが、それでもいよいよ秋が動き出したと思うと少しほっとする今年の暑さである。
そう言えば今日は処暑。動き出すと思えば気持ちが軽くなる。

密度

天の川どれと分かたぬ星万朶

満天の星が近すぎると見失うことがある。

済みきった夜空を覆い尽くす星という星が輝きをともなって降るように頭上にあるときだ。
こういうときだから見えるはずだと探すのだが輪郭すらそれと分からない天の川。
そんなことを経験した蓼科に泊まった夜のことは忘れられない。
また、まったく隙間のない星の密度の前には、有名な星座さえ区別がつかなくなるものだ。
澄んだ空気にあると、ふだんは人の目にはとらえられないくらいの輝度の星すら輝きを増してしまうのだろう。
感度のいいレンズを持たずとも、いまは高精細のスマホであればうまく撮れるに違いない。

青年団

盆唄の谺三日を三ヶ村

対岸の二集落、こちらは一集落。

熊野川支流を挟んで北は和歌山県飛び地、南は三重県。
かつては盆ともなると出稼ぎの若い衆が帰省して、それは賑やかな盆踊り大会が開かれた。
歌は即興、これがすべて同じ節で延々と未明までつづく。午前零時前にひと休みを入れたら年寄りや子供たちは引きあげてゆくが、再開とともに歌声とかけ声は静まった集落に響き、それがまた対岸の集落にまで聞こえてくる。
このような催しは青年団が主催するが、のど自慢のお年寄りもこの日ばかりは上機嫌である。
一日一村として三日三カ所の回り持ち。真っ黒な夜道とあってさすがに子供たちは遠征はしない。もっぱら若衆の出番である。
久しぶりに会う顔ぶれどうし盆が終わればまたそれぞれ仕事に帰って行く。束の間の恋の芽生えたこともあったろう。知らんけど。
今は遠い昔話である。

利権政治

入院のかなはず落命秋暑し

東京の知人がコロナで亡くなった。

たいそうお元気な方で誰もが100歳まで大丈夫だと言われていた方が。
コロナ陽性と判明し救急車を呼ぶも、ここでも受け入れ先が見つからず更に悪化して再度救急車が来るもすでに心肺停止となっていたという。なんともお気の毒な話だが、これが今の日本の政治である。
このたび統一教会が政権深くまで浸透していた背景には、教会の利権と政治家の保身がみごとに一致したことがあげられる。
自分たちの利権、お友達の利権のためにしか動かない。社会的弱者救済など口先だけで真剣に取り組んだことはない。
まだまだコロナの自宅死は続くだろうし、増えるだろう。
欧州で医者として活躍している人によると。この夏はマスクなしで長いバカンスを満喫中だという。
いったいどこでどう食い違ってきたのか。
答は明かである。厚生官僚、なかんずく自分たちの利権確保しか頭にない医療技官のいうままに無駄な3年間を過ごしてきたからである。
検査と隔離。これしかないのに、PCR検査が全く進まない。精度が低い抗体検査ですらいまだに十分に行き渡らない体たらくでは、老人はひたすら死を待つのみである。