遠い昭和

寄道を知らぬ下校児ゐのこづち
ゐのこづち昭和は遠くなりにけり

小学校から集団下校の子供たちがやって来る。

シニアの見守り隊に引率されて、おおむね皆おとなしく列を作っている。
このままあらかじめ決められた道をたどって家に着くのだろう。
こうした光景を見ながら、記憶は遠い昔をたどる。
めいめい仲のいい連中と連れだって、ときには道端のものに興味を示したり、道連れしたり、あるいはこの後一緒に遊ぶ約束をしたり、とにかくおとなしく帰るだけでは済まなかった日々を。
この時期外遊びすると服のあちこちにゐのこづち、通称ひっつき虫をつけてきて、玄関前などで頑丈なやつをはがしてから家の中へ入ったものだった。
これを互いに投げ合って相手の服に命中させる遊びもよくやった。
昭和はもはや記憶の遠いかなたにある。

豊年祭

例祭の幟や秋の旧参道

十月の第三土曜日〜日曜日は当町の龍田大社の秋期大祭。

これに合わせて地域の町のお宮でも例大祭が行われる。
そして各地区からは太鼓台を主としただんじりが出され、地区を巡回したあと大社に宮入する光景は一見の価値がある。
万葉の頃からの古い街なので当時の旧道も残つており、九月に入ると狭い旧参道をはさんで例大祭の幟が各戸にたって、ああもうそんな時期なんだと教えてくれる。
秋の例大祭は、豊作への感謝の祭。いわゆる村祭が大社を中心に各地区いっせいに行われるのである。
地区の太鼓台がお宮に戻る最終日各地区で盛大な打ち上げが行われ、夜まで各宮は皓々と灯がともされるのはいかにも豊年祭というにふさわしい。

裏年

植木屋の柿の枝葉に目もくれず

どこの家も柿の木が色づいてきた。

今年は太り始める季節に暑くて雨も少なかったせいか、出来はもう一つという感じか。
店先に並ぶのはそこそこいいようであるが。
やはり、きちんとした技術がないとあのような立派なものにはならないということか。
わが家のは今年は裏年であるようだが。

グリップ

右ばかり減るサンダルの草の露

ちびたサンダルに朝露の草がこびりついている。

庭履きにいいサンダルというのはなかなか見つからないもので、結局毎回安物で済ましてしまうのだが、大体が底がフラットだから雨後など濡れたまま玄関を汚してしまうことになる。
せめてゴム長のようにソールに深い溝を切ってくれてればこんなことにはならないのだが。
今日もホームセンターで探してみたが底のパターンはどれも満足いくものはなかった。
当町はもともとサンダルが特産のようで、かつてはあの便所のサンダルが全国トップシェアを占めていたとか。今では鼻緒などあれこれデザインを凝らしたものが自慢のようだが、ソール裏面のグリップまで気のきいたものは聞かない。

避けて通れない道

検査なほ病名知らずうそ寒し
骨密度落つとふ電話うそ寒し

今年に入って知人が立て続けに病に伏している。

ひとりはこの一月から臥せておられたが、このほどようやく外出できるようになったとのこと。ただし、治療は継続して受けておられ、人との接触も遠慮されているようで、手放しでは喜べないようである。
また或るひとは、原因不明の目眩や発熱が続き、いろいろな機関で検査してもらったがいまだに病名が知れず、そのため本格的な治療にも進めないまますでに二ヶ月以上は経過している。
お歳はおふたりとも私と同じ七十代だが、この年齢になると体に変調がきたしても不思議ではない。
今日はさらに、家人の電話が聴かずとも聞こえてきたなかに「骨密度」というワードが聞き取れた。平均の半分のレベルまで落ち込んできたとのことで、心配でならない様子である。
人はみな誰もが老いる。誰もが避けて通れない道なれば、あらがってもどうしようもないことだって多くなるだろう。いつかこの身にも起きる、そのときになって慌てないよう、ふだんから修養するしかない。

日々是好日

鰯雲焼けて西方浄土かな
鰯雲潮目をなして乱れけり

今日は外へ出た途端鰯雲に心奪われた。

複雑に乱れながらも一方向へ確実に流れているさまは、まるで目まぐるしい潮目に翻弄されながらも群としての意志を持ったかのようにうねりつつ広がりを見せてくれる。
帰るとなって顔を上げれば、西の空に残った鰯雲が真っ赤に焼けて西方浄土もかくやと思われる荘厳さ。
今日は鰯雲の二度にわたって珍しい態様、変化(へんげ)に遭遇する、秋の好日を賜った。
日々是好日とは禅の考えでは「命あるものにとって明日という日が来るとは限らない この一瞬一瞬を大切にせよ」という教えだそうです。
その日を好日とするために、自ら能動的に佳き日にするよう心がけるのが肝要と。

安定

ポケットの古きレシート秋の雲

いつのものなのか。

よく覚えていない。
急に寒さを覚えて一年ぶりの服を着て、ポケットに手を突っ込むとしわしわの古いレシートが出てきた。
そう言えばあんなこともあったかなと振り返って見るが、たいした感慨もなくこのまま時に流されてゆく浮遊感のようなものが身を包む。
秋が足早に過ぎてゆくような気温の変化だが、この何ごともないというのが精神的には一番安定しているのだと思える。