目覚まし歌

鶯や隣の雨戸開ける音

そろそろ初音が聞かれる頃。

玉川学園に仮住まいしていた頃、毎朝窓近くまで来て挨拶してくれていた。鶯はご承知の通り藪を渡っていく鳥だから、一軒一軒律儀に触れ回って朝だ、朝だと教えてくれるようだった。
当地でも鶯の声は聞かれるが、藪までは距離があるのと二重サッシのおかげでよく聞き取れない。防音効果も時には無粋なことをするものである。
掲句は作り話だが、あり得ない話ではない。
目覚めて窓を開けたり、外へ新聞を取りに出たときなど、鶯の目覚まし歌を聞くのはいいものである。

牛乳パック

満月の良き日を選び種蒔けり

古来農法では種蒔きは満月前後にすべしと言われている。

満月の引力によって土中の水位が上がるので理には適っている。
逆に新月のときは苗を定植するに適しているとも言う。苗が水を求めて深く根をはろうとするので活着がいいという理屈である。
次回の満月は3月4日になるのでその前後に種を蒔くのがいいわけだが、この時期はまだ寒くて直接畑に蒔いても発芽は難しい。地温が十分上がってくるのを待てばいいのだが、少しでも早く植えたいとなると今のうちから温床を用いて苗作りすることになる。五月連休頃にはホームセンターには花や野菜の苗がわんさと並ぶが、これらはほとんど温室や温床によって育てられたもので、露地で育ったものではない。
というわけで、今年は一本ネギをやってみようかと思い室内で発芽させようと数日前に牛乳パックに種を蒔いてみた。どうやら明日あたり針のようなネギの赤ちゃんが顔を出しそうである。
ところで、「種蒔」という季語は厳密には種籾を蒔くことであるが、近年は春に花や野菜などの種をまくのにも用いられるようになった。近ごろは農家でさえ自分で苗を作らなくなって農協などに発注するような時代だから、一般家庭で種籾を蒔くこと自体廃れてしまっているわけである。

光の春

とびとびに八重の釦や枝垂梅

庭では紅枝垂れ梅が白梅に遅れること一か月超でほころんだ。

白梅もまだ散らすには至ってないので、やや距離を置いて紅白がならぶ様は色彩の少ないこの時期にあって際だってめだつものがある。
この枝垂れ梅は剪定の鋏を入れてないので蕾がびっしりついており、満開となれば見応えのあるものと期待している。
ただ、枝垂れ梅の剪定は難しく、なかなかきれいに姿を整えられないのが難だが、家族で楽しむ分にはと気にしないでおこうと思う。
今日は久しぶりに日がさす日で、光には力を帯びてきている。気温は7度程度と低かったがそれなりに春を浴びたような気がする。

罪悪感

昼席のはねてココアの日永かな

昼間がずいぶん伸びてきたように感じる。

いつものようにZOOM句会が終わってもまだ一仕事できそうなほど日が高い。
午前中にやり残したものを片付けるにも十分な時間があるので助かった。
ところで、繁昌亭の昼席の終了時間は午後四時。ちょっと一杯といくにはちと早すぎる。甘いものでも食って、お茶でも啜って帰ろうかなということになる。
午後の定例句会もたいていは同じような時間帯に終わるが、飲兵衛はその時間にあいてる店を探すのが上手い。地下街などなら外が少々明るくとも罪悪感は芽生えてこないのは不思議である。

発根

荒鋤の高き低きを下萌ゆる

鋤田の一面を草が覆う。

畑に目をやればホトケノザ、イヌフグリも花を開き、野には春がいっせいに芽吹きだしている。
昨日、今日の雨はさらに春前線を北に押し上げているに違いない。
家に閉じこめられてやることもなくて退屈だが、二三日前に仕込んだ堆肥の発酵が始まるのを確認できたし、思ったより早くネギの種が発根したのを苗床に移すことができたのでよしとすべきか。

ヒット

ダイソーでしこたま買うて山笑ふ

多彩な商品の棚を眺めるのも楽しい。

こんなものまであると思はず手にしてしまうものも。
欲しいものがある場合、試しにまずはダイソーで探してみるといい。意外にヒットしたりするかも。
だけど、百円だからとついついバスケットに放り込んだり。山にも笑われそうである。
今日はぐっと我慢して初期の狙いのものだけ買ってきた。

エネルギー

春めくやミルク一函買ひに出て

気温が数度上がっただけですごく暖かく感じる日だった。

昼間ずっとやわらかい春の日差しがあったからだ。
あらためて太陽のエネルギーは偉大だと思う。
このエネルギーなくしては植物は光合成できないし、酸素も供給できない。植物が炭素を取り込んで有機物を作り、それを人間などの動物がエネルギーに変えて活動する。そのときに呼吸によって炭素は大気に戻されるし、植物や動物の遺骸を微生物が分解するときも炭素が放出される。このように炭素は循環するわけであるが、エネルギーはこれら活動によって大気に放出される。
人間が化石燃料を発見してこれをエネルギー源として産業革命が起きたわけだが、これは過去の植物が溜め込んだ太陽熱エネルギーによる炭素を一気に使い果たしているわけで、歴史上かってない規模で炭素が放出されていることになる。
経済活動によって炭素が増えたように言われるが、近年は化石燃料を原料とする肥料に依存する農業が最も排出量が多いと言われるようになった。化学肥料に依存するようになって大地を耕せば、取り込んだ炭素を取り組む微生物が姿を消し一気に炭素が排出されるからである。
酪農による牛のげっぷが炭酸ガス濃度上昇に荷担しているという説もあるが、それよりは化学肥料依存による炭素濃度上昇のほうがはるかに多いのである。
その酪農だが、いま日本の酪農は大変な苦境に立たされている。コロナによるインバウンド需要、給食需要縮小のため生乳を捨てざるをえないところまで追い込まれている。工業製品のように在庫がきかないし、余った生乳を弾力的に乳製品に転化するルートも閉ざされているからである。さらに円安によるえさ代高騰もあって廃業寸前のところまで追い込まれている農家が多いと聞く。
国内の酪農をとりまく環境はきびしいが、せめて牛乳なり国産の乳製品を買うのも支援になろうか。