試されている

落第の夢の目覚めの動悸かな

この時期になるとたまに見ることがある。

卒業して何年もたつのに、単位が足らないと分かって就職すらふいになった夢だ。
そんな夢の中では、いつも母親への申し訳なさで何と告げようかおおいに頭を悩ますのである。
さすがにこの歳になると久しく見ていないが、この新コロナウィルスで予定していた卒業式も入社式も、入学式もなくなるなど、新しく社会や進学へ一歩踏み出そうとする人にとっては、悪夢のような現実の思い出として一生忘れることができない年になるに違いない。
これから先は誰もが予想できない展開になる。
目を大きく見開いて、現実を冷静に見られるかどうか。試されている。

跡を残さず

水紋の揺れて川蜷揺るるごと

春らしい光の強さが加わって、水紋がきらきらと眩しい。

水量が豊かになっったこともあって流れも速く、煌めきがさらにましたようだ。
煌めきの底を確かめると、速い流れに身じろぎもしない川蜷が張り付いているのが見える。水を通した光りが揺れるので、殻自体も揺れるようにみえるが、実際にはうごいていない。通常、蜷が這ったあとは蚯蚓が這ったような跡が見えるものだが、その形跡すら見られず川底の表層の軽い泥などは流されているのだろう。

記憶の中に

教室をぬけて田圃の蜆川

学校のすぐ裏でどういうわけか太った蜆がいっぱい採れた。

遊びのつもりで川に入ってみると、両手ではとても受けきれない量がたちまち体操帽にいっぱいになる。
どうしてあんなところで蜆がいるのか当時はよく考えもしなかったが、今思い出せばこの用水は町の南側を流れる汐入川に通じているからに違いないだろう。
あの田圃はみんなとうに住宅地に化けているかもしれない。あの蜆を食ったのか捨てたのか、それもよく覚えていない今となっては遠い、遠い記憶のなかである。

手を焼く

野遊や球技のあやの片斜面

いつもの公園の激混みを予想して久しぶりに県立民博公園へ。

午後二時頃に着いたら広い駐車場にかろうじて潜り込むスペースがあって公園一周の径をたどる。
谷戸になっている一番奥地が水源となって、そのしみ出す水を集めてちょっとした溜池が整備されている。
望遠レンズをつけたカメラの列が並ぶところを見ると、どうやら目的はカワセミらしい。この時期カップル誕生の時期でいろいろなシーンが見られるからファンが多い。
公園にはあちこちに芝生広場があって、多くの家族連れがめいめいの遊びに興じているが、なにせ丘陵地帯に作られた公園だからすべてが平坦ではなく、複雑な傾斜面となっているのがほとんどである。球技などではこれがまた思わぬ影響を及ぼして、サッカーでは下のチームが不利となるのは必定。蹴り返してもすぐに足もとに転がってくるボールに手を焼くわけだ。

息吹

開園を待つなく開きチューリップ

もう咲き始めているものもあった。

チューリップ祭が予定されている公園だが、ひと月も早く咲き始めた株があって驚かされる。

白木蓮の芽吹き

目を転じると、木蓮の芽がほぐれてきて顔を出し始めているのがをる。
まさに「春の息吹」である。

知恵をめぐらす

啓蟄の芝生に嬰のあんよ着け

歩くにはまだ早い児を抱きかかえている。

その足をちょんちょんと地に着けて、早く歩けよとの願いか。
高い、高い、ならぬ「あんよは上手」の親心かも。
お姉ちゃんたちは芝生の広場でボール遊び。
遊ぶ場所が限られる今、庶民はそれなりに知恵をめぐらせている。

万物の命

土佐の名を負ふるみずきの萌葱かな

単なる黄色とは違う。

咲きはじめの土佐ミズキや日向ミズキはやや緑を帯びた、文字通りの「萌える」色の風合いがあり、それがまた初々しい印象を強くさせる。
土佐ミズキは細い枝だが意外に高く伸びるので、見上げる位置に鈴のような花をぶらさげる。葉もまだつけない枝が空に突きだして、そこに瑞々しい萌黄が点滅するのだから、青い空との対比が美しい。
冬に眠っていた大地のあちこちに、黄色を主体とした色が一気に燃え上がってくる、万物の命というものに感動が尽きない季節である。