誕生日

阿弥陀くじたどるよな路地虎落笛

東西に数本走る路地と南北に何本も走る路地とが織りなす街。

ただ、南北の路地と東西の路地とが交差する部分がそれぞれ微妙にずれていて、まるで阿弥陀籤(くじ)のはしご状になっていると言えばイメージしていただけるだろうか。王寺駅北側の旧市街のことであるが、阿弥陀籤の南から北へジグザグにたどってゆくと大和川にぶつかることになる。

昨日に続き今日も強風。若草山の山焼きの日であるが、今冬一番の冷え込みだというし、風が強くて花火や火の手がどうかという心配もあって結局見合わせることにした。あとはローカルニュースで確認すればいいことだし。(強風でも実施決定とか)

ふいご

寒風に翻弄さる者ちぎれ雲

今日は久しぶりに風が強かった。

風に押されると転がるような、風に向かうと戻されるような、足の運びもままならない吹きさらし。特に風が吹き通る橋の上では、歩行につれ振り上げた腕がそのまま戻らなかったりするくらいだ。

空を見上げると、地上ではこんなにすさまじく風が吹いているのに、なぜか雲の動きはゆっくりしている。このあたりの地形は複雑なので、大地がさながら鞴(ふいご)のような状態と言うことか。

嗅覚の春

風止んで匂ひたちたり春隣

風止みて 土の香のぼり 春隣

春の知覚は視覚よりも嗅覚のほうが勝っているのではないか。

古い農家の前を通りかかったとき、一瞬間であるが春の土の匂いがしたのだ。この匂いは土の種類が違っても関東のものと同じで、同時に懐かしさや親しさも感じるものであった。
確かに冬萌えなど寒の中に春を見いだすこともあるが、それはあくまで心象や「願望」としての春にすぎないものだ。対して匂いというのは、たとえ局所とはいえその場の空気そのものが具象としての春になっているのではないか。

顔を上げて

冬萌や胸を反らせて歩みけり

桜や楓の枝など確かめながら歩いているが、膨らむのは当分先になりそうである。

ただ、その中に微かに芽を膨らませ始めたのを見ることができた。木の名前は知らないがやや黄味がかかった小さめの芽だ。もうすぐ開花するのではないかと毎日その場所を通るのが楽しみだ。
寒いからといって首をすぼめていては冬萌には気づくことができない。顔を上げて歩こうと思う。

寒の極みの時期だが、七十二候で20〜24日は「款冬華」(ふきのはなさく)である。雪の間から顔を見せる蕗の薹をみたことがあるので、決して誇張ではないと思う。春はもう、すぐそこに来ているのだから。

日本人横綱はいつ

初場所を話題に髪切る鋏かな

老人が理髪店まで息子(と思われる)の車で送られてきた。

亭主がいろいろ話しかけて分かったことだが、御年99歳、間もなく100歳だと言われる。兄弟は皆死んで残ったのはとうとう自分一人だということ、最近の相撲は全然見なくなったこと、その理由は外人力士ばかりふえてちっとも面白くなくなったこと、むしろ三月が待ち遠しいこと、甲子園やらプロ野球やら野球が始まるからだということ、それまではじっと我慢だと話し込んでいるうちに息子さんが迎えに来てくれた。
椅子からしっかり立ち上がり、ドアの外へも誰の手も借りず出て行かれた。

今年の野球をフルシーズン楽しまれること間違いない。

餌付人?

餌とみて袋に寄り来緋鳥鴨

いつものように川縁を歩いていると、ヒドリガモの群れが一斉に私に向かって飛んできた。

今日は散歩の途中で寄った書店の袋を持っていたせいではないだろうか。
どうやらパンなどの餌をくれる人は袋を持っていることが多いので、餌をもっていると勘違いしたらしい。その後も岸に沿って私に付いてくる。さすがに50メートルほどいくと「なあ〜んだ」とばかり元の対岸に向けて戻っていったが。

飛鳥美人にご対面

大寒や飛鳥貴人が極彩美

大寒の今日、飛鳥歴史公園に行ってきました。

同敷地内にある高松塚古墳修復作業室がこの時期一般公開されるからです。
黴取りなどの修理中、六面全16枚の石壁が約20メートル四方の厳重に管理された部屋に並べられているのを、2重になったガラス窓3カ所から見学できる施設です。壁画そのものは歴史的、美術的に価値が高いとして国宝、したがって文化庁管轄で修復作業が進められています。
専門的な技術をもった職人さんをもってしても、一日1平方センチ、多くても2,3平方センチほどしか進捗しないという気が遠くなるような作業です。
1300年の眠りの間、土の中の石室は地震によるひび割れなどで徐々に浸食が進んでいたのですが、昭和47年に発見されて以降さらに劣化が進み、平成19年から約10年かけて解体修理することになったということです。
壁画劣化という手痛い経験とその対応をほかの遺跡保護のために生かしてもらいたいものです。