卒寿近く

刈払機腰に払うて生身魂

かくしゃくとしてなお頑健。

昼間の暑いときは家にて麦酒。そして夕方になれば律儀に菜園に日参という日課である。
盆のこの時期も早々と夏野菜の片付けを終えて、はやくも秋冬野菜の準備に畝を耕しておられる。作る畝はまるで定規で測ったように美しく、だれも真似をできない出来映えである。
ときにはむずかるエンジンをなだめすかせては畔の草を刈る。
まもなく卒寿に届こうかとは思えない達者ぶりである。

折り合い

秋の蚊をどこ吹く風の猫の耳

夕方になるとわんさか出てくる。

ホースの腕に、如雨露の腕に、数秒動かないだけで小さくちくっとくる。
利き腕が空いてないから打つこともままならないが、それでも何匹かのうちの一匹は仕留めることができる。
いつものことだから腹を立ててもしょうがない。これからも蚊とのつきあいは長そうだから、適当に折り合いをつけていくしかあるまい。
居眠りしていても耳だけ器用に動かす猫を見習いたい。

当たり年

さう言へば体躯しつかり秋燕

ここのところ虹をよく見る。

ちぎれたような雨雲が盆地によく入ってくるからである。
それももっぱら盆地東半分を通りことが多く、西の端っこの人間からはよく見える理屈である。もっとも背後からの光が必要なので午後の時間である。夕立というものを長いあいだ見てないが今年はやたら多い。夕立の当たり年である。虹をよく見るというのはそんな理由からであろう。
虹に顔を上げると一羽の燕が悠然と横切っていった。体格はいつでも南へ帰れるくらい立派である。
今度は盆地に入ってきた大和川に沿って下ってゆくのだろうか。それとも南へ下って紀ノ川沿いにすすみ紀淡海峡を渡るのであろうか。長い旅路に十分に耐えられようと思われる。

普段着

どの家も部屋着さまざま遠花火

土曜日だったか、隣町だったか花火大会があったようだ。

対岸の丘の向こうに打ち上げ花火が上がる音が聞こえて、つられるかのようにどの家からも人が出てきてみな花火の方向に顔を向けている。なかには歓声をあげる子供もいて家族のいい思い出にもなったようだ。
7月末から8月にかけてこのような催しを各自治体が行うが、このあたりは大きな町ではないので、どこも時間は短い。最も短いのは五分くらい。市のクラスになってもせいぜい10分程度。
それがかえって気楽な催しで、みながそれぞれ花火を近くで見ようと押しかけることもないし、当然店も出ない。音が聞こえてはじめて花火だと知って玄関や二階のベランダなどから鑑賞する。暗いからだれも着飾ったりしない。
人が出なくてもコロナ禍にあっては自粛する向きもあったが、今年は当たり前のように戻ってきた。
小さな町ならではの夏の楽しみである。

かりん糖

刃を入るやばきっと西瓜割れにけり

ようやく第一号の大玉西瓜を収穫した。

音や色など慣れないと熟し具合を見極めるのは難しいが、どうやら許容範囲に収まったようだ。
小玉西瓜も今度は落果させることなく、ちょうどいいタイミングで収穫できたのは上出来である。成長途上のものもいくつかあって今年は満足満足。
果物好きの夫婦にとって西瓜はどれだけ食べても飽きないものの一つである。
今日は西瓜を堪能したあとかりん糖でデザートの締めとなった。

つきすぎ

秋立つや雲の震へるにはたずみ

今日は立秋。

暑さがこれから静まると言うが残暑はなかなか頑強のようである。
昨今は九月になっても残暑見舞が通じるくらい夏が長くなったものである。
そういう名かでもどこかには秋の気配を感じたいもの。
朝新聞を鳥に出ると、原付のカバーに昨夜降った雨が流れずにたまっている。朝のまだ涼しい風がそれを揺らしているようで、細かに水面が震えている。
秋と風はつきすぎと言うべきものだが、雲を持ってきてさらに凡句に陥ったか。

開会式

アラートに継ぐアラートの夏の果

散水中にいきなり夕立がきた。

午後六時を過ぎてようやくむんむんした空気がおさまりかけて、ホースを握った。
するとどういうわけかこんな時にいきなりばらばらと大粒の雨が落ちてきた。空を見てもそれほど暗くないし、例によってほんの気まぐれの雨程度にちがいないと続けたが、いつまでもやまない。
やりかけたルーチンは意地でも続けると決めたがどんどんひどくなる。とうとう頭はもちろんTシャツまで肌にまとわりつくという濡れ鼠。冷房の効く家に駆け込むとそれが一気に冷えて肌寒くさえなってきた。
この二、三日スマホが何度も鳴って大雨警報を知らせる。
然るに肝心なときに鳴らないとはなさけなや。
暦のうえでは夏の終わりだが、夏の代名詞と言っていい高校野球大会がきょう開会式を迎えた。
直前になって代表チームのいくつかにコロナ感染者がでたが、屈せず最後まで戦ってくれればいい。