道中の一人に見えて初雲雀
空耳と疑ぐるほどの初雲雀
歩くたびに発見がある。
先日粒が開き始めた万作を見たが、これがすっかり開いてちりぢりの糸にほどけている。
また、珍しく日の暈がかかったお日様を眺めていたら、どこかで雲雀が鳴いている。もちろん今年初めての雲雀だ。
眼球の焦点合わせが鈍い僕には発見できなかったが、立ち話の相手がしっかり捕捉したようだ。
ただ、鳴いた時間はほんのわずかですぐに聞こえなかった。
最初の一声をせっかく聞きつけたのに残念なことである。
めざせ5000句。1年365句として15年。。。
道中の一人に見えて初雲雀
空耳と疑ぐるほどの初雲雀
歩くたびに発見がある。
先日粒が開き始めた万作を見たが、これがすっかり開いてちりぢりの糸にほどけている。
また、珍しく日の暈がかかったお日様を眺めていたら、どこかで雲雀が鳴いている。もちろん今年初めての雲雀だ。
眼球の焦点合わせが鈍い僕には発見できなかったが、立ち話の相手がしっかり捕捉したようだ。
ただ、鳴いた時間はほんのわずかですぐに聞こえなかった。
最初の一声をせっかく聞きつけたのに残念なことである。
腹出しの子は昔日か鳥雲に
巨星墜つ。
現代俳句の旗手金子兜太が亡くなったという。
死ぬまで俳句界を率いて巨大な足跡を残してきた人だが、代表句の一つに、
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
がある。
野山を走り回る田舎の子の逞しさを謳い、曼珠沙華の生命力に自分を重ねた句と言われるが、これなどは誰もが理解できる素朴な部類に入るほうで、なかには難解な句も多くてそれが私には印象に強く残る人である。
先々週だったか、やはり俳人の大峯あきらも亡くなり、俳壇も寂しいかぎりだが、俳句人口の裾野を広げること、若い才能の台頭が待たれている。
湯守のみ知る谷筋の蕗の薹
雪の宿の庭など、雪解けを待ちかねたかのようにあちこち顔を出しているのを見ることがある。
新潟でもそうだったし、飛騨の奥でもそうだった。
雪間に水芭蕉は4月から5月頃の光景だが、雪間の蕗の薹は3月の景色である。
寒地でそういう具合だから、雪のないところでは今月下旬ともなれば顔をだす時分だ。
毎年そうなんだが、蕗の薹ってけっこう見逃すことが多く、たいがいが薹がたってしまって食べ頃を逃したころに気づくことが多い。
今年は人の多い散歩道を避けて、新しいルートを開拓すれば天麩羅にするくらいの数を拾えるかもしれない。
菖蒲田の畦もろともに焼かれけり
菖蒲園の株がみな真っ黒だ。
雑草もろとも焼いて、発芽をうながすのであろうか。
今年も四月に入れば花菖蒲の芽をくっきりと認めることができそうである。
今は水が抜かれているが、芽が伸びて菖蒲田らしくなるのはいつのことであろうか。
糸ほどく気配のみえて金縷梅
まるで手品師の仕掛けを見るようである。
冬の間はあれほど小さくて固かった花芽がふっくらとしてきた。あのなかに糸をまきまきしているのだ。それを一斉にほどいて万作独特の形の花が飛び出すのだ。
もう少し経過を見ていこうと思う。
欠けめなく角芽出そろふチューリップ
公園のチューリップの球根が芽を出した。
暮れから年初にかけて植えていたので意外に早いと思ったが、思い出してみれば球根たちのなかには植えたときにすでに芽を出し始めていたのがあったので不思議ではない。
だが、ここ数日同じ寒さの中にも冷え込みが穏やかになった途端芽を出すのだから、その生命力のたくましいことよ。
もう春の駆け足が聞こえてくるようだ。
きのふけふ数へるほどのいぬふぐり
四温晴というのだろうか。
ようやく、春のさきがけらしい日に恵まれた。
ここ一週間ほど、鼻がむずむずするため用心にマスクでしっかりガードして散歩へ。
枯れ野に下草が芽生えてはきていたものの、青きを踏むとまでいかなかったが、今日は犬ふぐりがぽつぽつ咲き始めているのに気がついた。春は一歩ずつ前へ進んでいるのはまちがいない。
ただ、さすがに最盛期のように満天の星とはいかないようで、数はひいふうみいようと数えられるくらいのもの。
鳥たちも一部は春の囀りではないかと思える鳴き方をするものもいて、春の先取りをいただいたような日であった。