期間困難地域

植えられて見てももらへぬ桜かな

こんな異様な光景はない。

バリケードされて無住の街の桜。
桜並木のこちら側は避難解除地域でライトアップもされているが、あちら側は期間困難地域で深い闇のまま。

そういうもの

頃なればどこか人来る桜かな

しばらく、「花」シリーズを続けたい。

日本人にとって、桜は人を寄せるものだ。
蕾と聞けば、開花はいつだとなり、咲いたら咲いたでいつが見頃か、いつまでなら見られるか、そんなことが気にかかってしず心ない季節となる。
咲けば、その下に人が集まり、宴になる。夜は夜とて宵篝、最近はライトアップにとって替わられたが。

全然関係ない話だが、「人来る」というフレーズからこんな句を思い出した。

死にたれば人来て大根煮きはじむ 下村槐太

昔は誰に指示されるわけでもなく、隣近所、今風に言えばコミュニティの人たちが集まって、それぞれの持ち場でてきぱきとことが運ばれてゆく。自分も、死ねば、このように、ごく事務的にすべてがながれてゆくのだろうか、と。

距離置いて

一木に幾組の倚り花の宴

一方通行で、しかも立ち止まってはいけないほど混み合う桜まつりは勘弁だ。

若いときは、積極的に賑わいを求めて一員に加わるのも悪くなかったが、さすがにもうその元気はない。
そこそこは本数がある桜を、「そぞろ歩き」でじっくり楽しむ程度がいい。
茣蓙を敷いて車座の宴もいいが、風があったりすると意外に寒かったりして、長くは続けられない。
理想は、ざっと桜狩りしたあとは、その桜がよく見えるカフェやホテルでワインを傾けたり、桜弁当を楽しむことではないだろうか。要するに、少しだけ距離をおいて眺めるのである。

一本の桜の木の下で、何組も陣取るような桜狩りはちょっとうるさくていけないかもしれない。

高遠の桜

調度なき囲み屋敷の花疲

この週末は各地で桜まつり。

満開と祭が一致する年となったようである。
雨も朝のうちだけだったので、人出は多かったろう。
今までもいろいろな花を見てきたが、一番印象深かったのは、高遠の小彼岸桜だ。まず城自体は斜面に作られて大きなものではないが、濠と石垣がたくみに組合わされて攻めるには難しそうな要塞のようなものだ。登るたび行くたびに桜の景色に変化があって厳しい坂も苦にはならない。
桜を十分満喫したあと、城の下に再現された江島の囲み屋敷に寄ったことも桜の記憶とあいまって印象はより深いものとなった。
山深い場所だけに見頃の時期は中旬から20日前後だと聞く。
高遠から杖突峠へ出ての眺望もまた一流。信州の春はまたよいものだ。

国際色

さまざまな国の酒並め花筵

花見もずいぶん変わってきた。

そのひとつは外国人が増えて国際色を帯びてきたことだろう。
職場や学校には、ちょっと昔には考えられないくらい外国人の同僚や仲間が増えたことだろうし、お花見に行こうとなれば一緒に誘い合わせるのは自然だ。
仏教徒もいれば、ヒンズー教、イスラム教、etc.、宗教だって、さまざまなら、ワイン、ビールはもちろんマッコリ、紹興酒、etc.、酒の種類だってバラエティあっていい。もっとも、日本になれた外国人なら、日本酒だって、焼酎だって飲み慣れてるから、案外酒の種類は限られるかもしれないけど。

円滑コミュニケーションには有用だが、「きちがい水」とも言われるくらいだから、いくら無礼講でも公衆の前だ。大人の飲み方を示してもらいたい。

写生大会

画架背負ひて徘徊もまた花曇

絵はいまでも苦手だが、過去一回だけコンクールに入選したことがある。

それもはるか昔、たしか小学校4年生のときでなかったか。その年から水彩画を習うことになっていて、新学期の前に絵筆や絵の具など買ってもらったばかりであったと思う。
近所にハイソな家の同級生がいて貧乏な家の子とよくつきあってくれたものだと思うが、まだ春休みであったか、写生に誘われて言われるままに出かけた。その子には姉もいて、水彩画にも手慣れた風だった。河原に降りて下から見上げるようにして桜の土堤を描こうということだった。
今考えてみても、なかなか面白いアングルで、土堤の先には橋もかかっていてこれも画用紙の端に入れた記憶がある。
市主催のコンクールに応募したことなどすっかり忘れていた頃、クラスの先生から入選を聞かされたときはたいへん嬉しかった。
今思えば、カメラで言えば広角レンズで切り取ったような画角で、友達に言われるままに河原に降りたことが決め手だったと思う。一人だったらとても思いつかなかったろう。
そんな得難い友人も間もなく転校となって、以来再びコンクールに応募する機会はこなかった。

見かける

初花の車窓となれる赴任かな
出張の車窓過ぎりし初桜

務めているときは桜をじっくり眺める時間はなかなかとれないものだ。

いきおい、仕事後に連れだって夜桜見物に出かけたり、休日に家族と楽しんだりするのが中心となる。
それ以外は、通勤途中や勤務時間中、あるいは掲句のように外出時に、「見かける」のが関の山だろう。
また、休みに桜の計画をたてていても、思うとおりに咲いてくれないこともあるし、あいにくの天気で気勢がそがれてしまったり、とかく自然相手はままならない。
ただ、どんなときであれ、その年初めて「見かける」花は特別である。ニュースなどで各地の花便りは盛んに耳にするが、やはりこの目で見る桜、ことに初桜ならばなおのこと、浮き立つ心が増してくるというものだ。