名月はいつ?

月白や尻尾の太き飛行雲

飛行機雲というのは見飽きないものがある。

糸を引くようにすうっと一筋きれいに刷けるのもあれば、吐いた口から崩れて広がったり。ときに反対側から機影が見えて、ぶつかりはしないかと心配するくらい同じ高さに飛んでいたり。また、この飛行機雲というのはどこまでも続くのかと思ったら、まるでエンジンが止まったように突然消えてしまったり。
飛行機雲が見られる気象条件というのはあるのだろうが、その時そのときによって雲の形がちがうのが面白い。
先日見たのでは、まるで染色体のように螺旋を描いているのもあって、ちょっと珍しかった。

この数日秋本番の快適な一日を楽しんでいたが、それも早やおしまい。台風12号とやらで今日はやけに蒸し暑い。
あっという間に発達した今度の台風は、この時期らしく西日本にくるらしい。
名月にはまだ日にちがあるが、もう少し静かに願いたいものである。

ところで、調べてみてびっくりだが、今年の名月は九月十五日。陰暦と太陽暦がぴったり一ヶ月の差なんてあるんだね。

建長寺

禅寺の作務行き届き葉鶏頭
瑕疵あってならぬ禅寺葉鶏頭

「葉鶏頭」という題が出された。

ふだん気にも留めない花、というか葉を愛でる植物だが、はてどんなところにあるものかと検索してみたら、鎌倉は建長寺、総門から山門にいたる石畳の両側によく手入れされたのが並んでいる。
どちらかと言えば派手な色彩で好きにはなれないし、俳句をやらなければとくに興味をひかれるようなものではないが、おかげでいろいろ学ばせてもらっている。
締め切りにはまだ時間がありそうなので、これからは注意して目を配ることにしよう。

鍾乳洞のある町で

北海道少なきはずの秋出水

災害直後の町長の発言に驚いた。

「台風のピークを過ぎていたので、こんなに雨が降るとは予想もしなかった」。
今では、文字放送、災害アプリなど雨雲を捉えた情報が簡単に得られるというのに、その確認さえ怠っていたことになる。
町長ですらそんな認識では、災害対策本部はいったい機能してなかったのではないかと疑われる。
ここ数年は、いわゆる異常気象多発で、記録したことがないほどの雨、風、波などの警報が盛んに出されている。まして、このたびは数日前から東北地方に初めて上陸する恐れについて警告が出ていたのである。
九州など西日本では雨が多い地方とちがって、相対的に雨の少ない東北や北海道ではこれほどの雨への対策はされてないという。大津波でもそうだったが、今や想定以上の事態が頻発することを念頭に置いておく必要がある。
今日になって、「暗くなっての避難指示は危険で出せなかった」という発言があったが、責任逃れのための付け足し感が否めない。
労働災害の世界では「ひやりはっと」事例も管理項目に入っていて、日常から危険予測能力を高める努力がされているのに、天然災害に対する自治体はどうか。
町名を聞いただけであの有名な鍾乳洞があるところだと分かったが、一日も早い復興を願うばかりである。

毎夜の虫浄土

うかと出て虫の楽止む狭庭かな

相変わらず虫浄土である。
この一週間ほど、夜が過ごしやすくなったのに合わせるかのように毎夜虫に楽しませてもらっている。
どうも虫にも棲み分けがあるらしく、平らな庭の茂みにはこおろぎが単独で、駐車場などの茂みには、何匹も同時に鳴くのではっきりと断定できないが鈴虫のようなものが複数聞こえてくる。
めったにないことだが、スマホを持ち出して録音し、LINEとやらで娘に送ってやった。

ただ、もっとよく聞こうと近づいたら、名演奏がはたと止まってしまった。

嫁も食いたい

日に虫にさんざやられて秋茄子

茄子が元気を取り戻してきた。

夏植え向きと聞いていたのに、暑さのせいか夏の間はなかなか実をつけなかったのが、ここにきてポツポツ花をつけてきました。尻尾をくるっと上に向けたかわいらしい実がなることでしょう。

やり過ごすのがやっと

尿酸も宥めねばならず秋暑し

二八とはよく言ったもので、俳句の世界にも言える。

端的には、歳時記に収録される季語の数である。
「ホトトギス新歳時記(第三版)」を例にとると、二月は27ページ、八月は48ページ。七月の118ページに競べるといかに少ないかが分かろう。ただ、この歳時記では八月を立秋からのものとしているので単純な比較はできないが。
いずれにしろ、限られた季語の中から今日の季語を選ぶというパターンを繰り返していると、満遍なく選ぶというより偏りがどうしても出てしまう。
そして、この暑さである。今日で三日目だが、「秋暑し」にまた登場してもらうこととした。
この残暑をやり過ごすだけでも大変なのに、あれこれ持病を抱えていればなお暑さが堪えてくる。

西日厳しく

六畳に最期を看取る秋暑し
六畳に介護ベッドの秋暑し

なんか今年はほんとの秋がくるんかいなと心配するほど、「秋暑し」の句がいくつでも詠めそうな気がする。

別に八畳でも、十畳でもいいけど、暑い感じを出すためには六畳のほうがいいと思った。介護ベッドなどを入れればなお狭く感じるものだ。何より、病人など看取る対象を詠むよりは場所に拘ってみたのだのがどうだろうか。それは、できるだけ自分の気配を消して客観的な句にもしたかったからだが。
間もなく九月ともなれば西日はますます傾き、部屋のなかにまで容赦なくさしてくるようになる。簾をかけたりするが、それではとても追いつけない。駆けつけて来た親類縁者なども出入りしてさらに暑さが募ってくる。もともと暑がりだった病人なので、クーラーを強めに効かせたつもりでもまだ「暑い」と訴える。もう十分涼しくなってるよと聞かせても、半ば意識がとんでる病人の耳には届かず途方に暮れてしまう人たち。

実体験から多少脚色した句だが、母を見送って間もなく四年になる。