この時期九段へ

春昼のあみだに被る帽子かな

明日は27度になるらしい。

今日だって外でちょっとだけ体を動かしただけで汗ばんできた。
かと言って、家の中に入ればいっぺんに汗が冷えてきてしまって寒く感じる。
体温調節の難しいシーズンだなと思うが、これも歳のせいかもしれない。

10日になろうとしている熊本の車中泊、避難所生活の被災者に比べたら、なんとも間の抜けたことを書いている。
しかし、「みんなで渡れば怖くない」とばかり、こんな時期に九段で集団参拝して胸を張っている議員に比べれば幾分ましだろうけど。

家にいたい日

土葺きの天守追ひ打ち霾曇

当地では今年初めての黄砂が飛んだという。

輪郭は見えて、細かなディテールが見えない景色。
山は稜線だけがぼんやり見えるが、山襞などはなくて墨で塗ったようにのっぺらとしている。
霞のように、蒸気が立ち上るようなところだけが濃いというような濃淡に差があるわけでなく、視界のすべてが均等にぼやけているのが黄砂の特徴だろうか。
昼間のヘッドライトなど普段は気にも留めないのだが、今日は踏切待ちしていたら電車のそれがいつもより明るく見えたのには驚いた。改めて、こんな日は外にいたくないなと思う。

団塊つながり

里帰りの子も団塊昭和の日

昭和も遠くなりにけり。

平成も28年だから、団塊ジュニアたちも人生の半ばを折り返す頃を迎えている。
我らの折り返し時期というのは、バブルがはじけた直後であり、会社では膨らみきった事業の見直し、関係先の整理などなど、負の資産の始末に追われる毎日であった。
今の団塊ジュニアはと言えば、少子高齢化がすすむ一方で右肩上がりの上昇など期待すべくもなく、むしろ雇用の正規・非正規による格差や貧富差の拡大など、殺伐とした光景が見え隠れしている。
まことに生きづらい世の中だろうが、ゴールデンウィークを利用して帰省するという連絡があった。
親として出来るのは何も言わずに迎えてやるくらいしかないけど。

別格の土地

隠国の懐深し亀の鳴く
惹きつけてやまぬ隠国亀の鳴く

この時期、長谷寺は牡丹真っ盛り。

その長谷寺が管理している前山は「与喜山暖帯林」といって国指定の天然記念物だが、頂上付近にかけて山桜だろうか、里ではとっくに散ってしまった、薄紅の花が鮮やかに散在するのが見える。
そのまま榛原方面へ国道を登っていけば、左右の山にもちらほらと顔を出していて、もう新樹と言っていい鮮やかな緑との対比が美しい。

山懐の十一面観音さんといい、牡丹といい、山桜といい、大和国でもここはやはり別格の趣だ。

地が動く旬日残花散りにけり
しづ心なき目に見えぬ残花かな

今頃はどのあたりを走っているのだろう。

日本列島の桜前線である。
熊本地震からすでに一週間経過して、そのあいだ桜のことはすっかり頭の中から消えていた。
気がつけば、造幣局の「通り抜け」も、吉野の桜も終わっている。
残るは「残花」を楽しむことだが、これだってもうその時期は過ぎて、桜で言えば「余花」の季節を迎えようとする時候である。

甚大な被害をもたらした災害と「桜」とはあまりにも不似合いである。

吾妹の十日

老いぬれば美しき悪しきのおぼろかな

母がことあるごとに繰り返していた昔語り。

とくに覚えているのが、生後十日で命を落とした妹の話である。
大地震が襲ってきて家が倒壊し、座敷奥に寝かせていた赤子を連れ出すどころか、自分の身ひとつ守るのに精一杯だった様子を何度も聞かされた。
当時、医者にも見放されるほど衰弱していた私が、本来妹が飲むべき乳をふくませたら忽ち回復に向かったとも。

晩年になって、赤子を救えなかった悔恨の言葉は少なくなったようだ。
ただ、今も生きていて、こたびの熊本地震を聞いたらばきっとまた昔に戻って、地震の怖さを繰り返し語ったことだろう。

気付薬

停電の闇に沈丁それと知る

はっと吾に返るときがある。

考え事にふけっていても、この香りだけは特別である。
どちらかと言えば風のない日に強く匂うのだが、漆黒の闇のなかでもそれが漂ってくる方角はすぐに知れる。
その日の気分によっては、インパクトが強すぎて敬遠したくなるときもあるが、総じて気付け薬のようなレフレッシュ効果があるようだ。

車上で夜を明かす人たちに安らぎあらんことを。