大潮の礁の沖まで蟹を追ふ
沢蟹のバケツ見せ合ふ川遊び
飼ひたしと蟹見せに来る幼かな
片爪のもげたる蟹を放ちけり
沢蟹の不揃ひなるも鄙の饗
兼題「蟹」。
なかなか難しい。
想像力を目一杯働かせなければ納得できるものは生まれてこない。
嘱目吟詠ならなんとか詠めても、場に居合わさないで「詠む」のは苦手。克服しなきゃね。
めざせ5000句。1年365句として15年。。。
大潮の礁の沖まで蟹を追ふ
沢蟹のバケツ見せ合ふ川遊び
飼ひたしと蟹見せに来る幼かな
片爪のもげたる蟹を放ちけり
沢蟹の不揃ひなるも鄙の饗
兼題「蟹」。
なかなか難しい。
想像力を目一杯働かせなければ納得できるものは生まれてこない。
嘱目吟詠ならなんとか詠めても、場に居合わさないで「詠む」のは苦手。克服しなきゃね。
朝に掃き夕に掃きして花南天
築地塀の瓦に零れ花南天
南天の花期は長いようだ。
六弁の花が開くまでも随分時間をかけるが、花が咲いてから散るまでの時間も長いのだ。
しかも、桜のように一斉に咲いて一斉に散るという感じではなく、ばらばらに咲いてまたばらばらに散ってゆく。
この一週間ほど玄関先に散ったのを毎日のように掃いているが、まるで散るのを惜しむかのようにまだまだたくさんの花弁が枝に残っている。この分では全部散るまでにさらに一週間ほどかかるのではないだろうか。
今年はとくに花を多くつけたせいか、そんな感想をもつにいたった。
紫陽花の苑に湿れる句帖かな
今日も紫陽花。
やはり、この嫌われる湿りがちな季節を逆手にとって、ひときわ似合う花は外にないからだ。
庭の片隅の紫陽花も今年は殊の外いい色を出しているので、切りとって花瓶に盛った。
紫陽花苑を歩いていると服の濡れるのにも気づかないことがある。まして、吟行というのは句帖を片手に握りしめているので、いつの間にか天露を含んでいたりもするのだ。
それで、いい句が授かれば問題はないのだが。
大鞠の項垂る午後の四葩かな
梅雨晴れ間の日差しの強いこと。
六月ってこんなに日差し強かったかなあと訝いたくなるような紫外線である。
これでは動物はおろか植物だってつらいだろう。
げんに、紫陽花などは水揚げが間に合わないせいだろうか、葉も花もしんなりしょげかえっている。
夕方になるとまたいつもの姿に戻るので、項垂れているからといって慌てて水やりすることはないのだが。
走り根の畝と見えたる椎落葉
丘陵の尾根を巡る道に出た。
人踏跡がついて、走り根が浮き彫りになっているが、そのその隙を埋めて椎落ち葉が積もっている。まるで、棚田に落ち葉の水が張ったようにみえて、走り根はその畝のようにも見える。
立ち止まってしばらく眺めていたいのだが、そうもしておれない。止まれば藪蚊の襲来だ。
落ち葉に足をとられるぬよう行くしかない。
泥池に亀の子浮かぶ亭午かな
散歩するにも暑い季節になった。
馬見丘陵は近いし平坦なのがいいが、墳丘ばかりの公園なので日陰が少ない。
そこで、今年一番暑い日となった今日は、郡山の民族博物館公園を一周してみることにした。
公園は矢田丘陵の裾に広がっており、周囲は開発されて住宅地になっているところもあるが、里山の景色がまだまだ残されている。
形は昔のままだったが泥水に満たされて到底利用されているとは見えない用水池のところまでくると、泥水に亀が首を出して浮いている。牛蛙もこの池の何処かでときどき鳴いている。
閻王や絵解の刀自の比丘尼めき
今月限りの特別開帳の閻魔堂では五分ほどの解説がついた。
お賽銭を投げる間もないほど、立て板に水のごとく老婆の解説が始まったかと思うとこれがなかなか終わらない。平板なトーンのせいか、中身にもなかなかついて行けずじまいのありさまで、とうとう後半はほとんどの話が空の上へ飛んで行く。
もう少しじっくりと閻魔さんを拝見したかったところ、早々と退散することにした。
かつてこの国には「絵解比丘尼」という尼僧がいて、熊野勧進のため地獄・極楽など六道の絵解きをしながら歌や物乞いをして諸国を歩いたそうである。これが、のちには遊女同然となり売色を業とするようになったとも。閻魔堂の絵解き刀自にはそのような妖艶な趣はなく、むしろ能面のように無表情だったが、長くこの閻魔堂をお守りしてきた年輪の趣だけははっきりと感じ取れるのであった。