バリアフリースロープ挟み雪柳
どういうわけか、庭の雪柳が花をつけたまま年を越した。
春になっても花が枯れるどころか、一段と花の数を増してきて、芽吹きの緑も生き生きとしてきた。
雪柳にとっては、さぞけじめのない冬だったのだろうが、さても姿形に似ず逞しいことだ。
柳ならぬ雪柳の柳腰を思う。
めざせ5000句。1年365句として15年。。。
バリアフリースロープ挟み雪柳
どういうわけか、庭の雪柳が花をつけたまま年を越した。
春になっても花が枯れるどころか、一段と花の数を増してきて、芽吹きの緑も生き生きとしてきた。
雪柳にとっては、さぞけじめのない冬だったのだろうが、さても姿形に似ず逞しいことだ。
柳ならぬ雪柳の柳腰を思う。
げんげ田に犬や幼なの声まろぶ
春耕にはまだ早い大和盆地である。
雑草も目立ってきたが、一部は紫雲英田として散歩の人も歩みをとめて眺めている。
リードを解かれた犬は嬉々として田に遊び、幼子も紫雲英に足を取られながらも走り回ってる。
明日の朝は冷え込んで遅霜注意報が出ているが、そのあとは暖かい日が続くそうだ。
もう冬物はクリーニングに出してもいいかもしれない。
春水の雨打つたびに震へけり
終日の雨。
あらたにできた水溜まりはもう春の水と言っていい。
その水溜まりが雨粒が落ちるたびにぷるんと震える。
その水が土にしみこんで木々の芽ぐみをさらに促し、春を加速させる。
雨の一滴に始まる春水が春を一層濃くするのである。
絵手紙の文字よく滲み春めける
夕刻より雨が降り始めたようだ。
「ようだ」とは、雨音は聞こえないけど、走り去る車の音がいつもよりくぐもっているからだ。はたして、外に出ればポツリポツリと撫でるように雨が手に当たる。空気もどこかなま温かい。
春の雨だ。
2キロ先の駅近辺の灯りが柔らかい。
冬の遠灯りは冴えてまたたくようだが、春はこころなしか滲むように見えるから不思議だ。
桜貝やつと見つけし皓歯かな
一握の砂に見つけし桜貝
鳴砂の小瓶にひとつ桜貝
天気に誘われて、久しぶりに車を磨いた。
洗車、車内掃除で2時間、昼飯をはさんでまた2時間のワックスがけ。
腕は痛いわ、腰は痛いわ。明日はもっとひどいことになるだろうけど。
午前中は頭上の雲雀君がおおいに楽しませてくれた。キヨノリ君に教えてもらった通り、目の焦点に気をつけて一生懸命探すが、なかなか見つからない。
見つからないわけだ。すぐそばの電柱の天辺に止まっていたのだから。意外に近い所にいたので、中距離に照準を合わせた焦点では見つからないわけだ。
雲雀にも、青空にもなんにも関係ない今日の季語は、今月の兼題のひとつ。
海から遠く離れたところに住んでると、縁が遠い季語だが、遠い記憶を呼び起こしたり、想像を働かせたりして。二句作らねばならないので、あとひとつ何とかしなきゃ。
春炬燵座り直して黙祷す
5年前の今日、テレビに釘付けであった。
5年後の今日もテレビの前に座って、あの日のことを思い出していた。
午後2時46分、テレビの呼びかけにしたがって黙祷を捧げる。
さすがに胡座はかいてられずに正座して居ずまいをただしたのは言うまでもない。
思えばこの5年で身辺にもいろいろ変化があった。
このブログの開設、当地への移住、母を看取り、愛猫を相次いで失い、新たな猫を拾った。
いつの間にか毎朝心経を唱えるようにもなっている。
そのうちだんだんと日々が淡泊になるというか、毎日同じようなことの繰り返しで、気持ちがせくということもなくなっている。
いいことなのかどうかは分からないが、平穏とはそんなものなんだろう。
着岸に手間取る渡し菜花東風
今日の風は冷たかった。
ただ、周りを見渡すと山には芽吹きは始まっているし、朱雀大路の柳が遠目にも芽吹いているのが分かる。
気温も10度を下回らないので、出歩くにはちょうどいい具合かもしれない。
今日の風から連想して、今日の季語は「東風」だ。
陸ではたいした風ではなくても、海に出たり、広い川に立つと意外に風は強いものだ。
10年ほど前に水元公園から柴又方面へハイキングしたときもそうだった。
江戸川(だったか)を渡る「矢切の渡し」は健在で、野菊の墓の舞台となった対岸に渡るときに利用したが、強風にあおられて船足もおそく、着岸にも慎重だ。
渡りきった対岸には田園が広がり、菜の花畑も広がっていたように思う。
「東風」の頭に言葉を冠して、例えば「桜東風」「鰆東風」なども許されているので、「菜花東風」も許されようか。