日常から隔離される

冷やかに入院初日整ひて

入院初日というのは大抵は何もすることがない日である。

受付が済むと部屋に割り当てられ、看護師や担当医から明日以降の予定を告げられるのも、すべて予め決められた手順通りに粛々と行われてゆく。
その後と言えば、早い夕食、そして早い消灯、それ以外はなにもすることがない。日常から全く切り離された孤独な時間がやたら長い。

生まれて初めて入院してから2年がたった。

旅愁

外つ国のいざよふ月を待ちわぶる

旅をしてなかなか暮れないことに驚くことがある。

サマータイムだからよけいに夜の時間が長く感じるのだろうか。
長い旅行ですっかり忘れていたが、昨日は仲秋の十五夜だったと聞くと今夜はぜひ十六夜の月を見たくなった。
そこで、アスパラガスを肴にワインを傾けながら、テラスでたっぷりと時間を過ごすのだ。
すると、ビルの間から月が顔出す頃には今日で最後になる旅をあと一日延ばしたくなるのかもしれない。

曇りから晴れへ

金堂の御開扉さるる良夜かな
御開扉の金堂灯す良夜かな
天平の甍あまねく月明り

今日の唐招提寺は夕方5時から無料で開放される。

観月讃仏会が行われる御影堂の庭は有料だが、肝心の和上像は拝観できないうえ、会式の模様も前庭からでは遠く、燭の灯りだけで行われるので暗くてよく見えないというのが実情である。
だから、月の昇るまでの時間、ところどころの燭だけでほの暗い境内の好きなところで時間をつぶせばいいのだが、何と言っても最高の贅沢は国宝の金堂が特別開扉され、中のこれまた国宝の三尊像が灯りに照らされてそこだけがまばゆいばかりの光を放っている空間である。ここは人も少なく、誰に邪魔されることなくゆったりと浸れる。
照らされた三尊は正面の南大門からもよく見通せて、遠くからも荘厳な雰囲気に引き込まれる。

やがて観月会が終わる8時頃には月も高くなり、境内の松林のうえにようやく顔を出し始める。三尊の尊いお姿を堪能した後は、日本一の月が昇り境内にもほのと光がさしてくる。
月の光を浴びた境内の砂利と暗い建物の陰影とが絶妙なコントラストをかもしだし、幽玄の世界に引き込まれるようである。

奈良盆地は午後3時頃から雲が薄れてきた。
これなら今夜は間違いなく良夜であろう。

どこか飛鳥風

頬に五指そへて秋思の仏かな

広隆寺の弥勒像、中宮寺の観音像のしなやかな指とは違う。

この白鳳時代の半跏思惟像は右手の指五本がすっくとのびて、これが頬に当てられている。
どこのお寺のものか忘れたが、飛鳥仏の面影を残している仏さんだった。

彼岸花三態

踏切の一旦停止彼岸花
幾重にも棚田を分かち彼岸花
少年の自転車降りて彼岸花

今日は榛原の句会。

途中、長谷寺から吉隠にかけての隠国の棚田がみごとに色づいていて、その畦を彼岸花が覆っている。それはまるで、卵をはさむ幾重ものサンドイッチのようにも見えた。
踏切に止まり左右確認すると否が応でも彼岸花の朱が目に飛び込んでくる。
また、自転車を停めて大和川の堤防に降り彼岸花に見とれている少年がいる。

今、大和はどこを走っても曼珠沙華が乱れ咲いている。

ねぐら入り

明日去ぬる予兆でありし夕燕

今にして思えばあれが帰燕の打ち合わせだったのか。

数羽群れ飛んでるなあと思ったときがあったが、気にも留めずにいたら家の周りからいつの間にか燕の姿が消えている。

葦原が広がる平城京跡には、8月頃から成鳥や若鳥の数万羽が集まって「ねぐら入り」が観察できるそうだ。さぞ賑やかな光景だろうと思うが、9月末頃にはもう見えなくなると言うから、広大なエリアは北や東からやってきたものにとって格好の中継地になっているのであろう。
遺跡発掘した跡を広場や建物ばかりにしないよう働きかけているグループの活動もさかんで、ぜひ鳥たちの安息地がこれからも守られるように期待したい。

天上天下唯我独尊

爽やかや童形太子獅子吼像

太子像の丸い童顔がかわいらしい。

天と地をさして例のポーズである。
白鳳展も今日が最終日。
童顔の仏さんが数多く展示されていたなかでも、ぷっくらとした太子像の獅子吼像が印象に残っている。
今日のようないかにも秋の日にはふさわしい仏様のような気がする。