天上天下唯我独尊

爽やかや童形太子獅子吼像

太子像の丸い童顔がかわいらしい。

天と地をさして例のポーズである。
白鳳展も今日が最終日。
童顔の仏さんが数多く展示されていたなかでも、ぷっくらとした太子像の獅子吼像が印象に残っている。
今日のようないかにも秋の日にはふさわしい仏様のような気がする。

闇深し

月天心路地の庇の闇深く

京都には路地が五千あるそうだ。

地元の人は「ろおじ」と呼ぶそうであるが、なかには路地自体が私有地になっており、その路地をはさむように町家が並ぶ。そこに迷い込むとまるでタイムスリップしたかのような別世界が広がることもあり、入り口に立つとのぞき込みたい誘惑に駆られそうだ。

月が天心にかかり、せまい路地の石畳が照らされた。深い軒の庇に覆われた闇がますます深みを増した。

花期が長い

花芙蓉茶巾絞りの酔ひの果て

酔芙蓉は一日花だという。

では、咲いた後はどうなるかというと、翌日あるいは翌々日にかけてちょうど茶巾絞りの菓子のように丸く縮まってゆく。
一本の木から相当の数が何日もかけて咲く、わりに花期がながい花でもある。
もうすでに終盤に入ったが、まだ楽しめる。

やがて、金木犀の香りが漂う頃にはいつの間にか終わっているという具合である。

秋野となって

放棄田の一枚ざわとゑのこ草

遠くから見るとまるで稲穂の波のようだが。

みごとに捨田の一枚がまるまる狗尾草に埋まっている。
尻尾はめいめいまちまちの方向に向いていて、草の根元ではさかんに虫が鳴いている。
ところどころには、去年の籾がこぼれたのだろうか、みすぼらしい稲も混じっているが、もう田とは言えず虫の原と言ってもいいかもしれない。これも秋野の一つと言えば格好良すぎるか。

たがて収穫が終わると発掘が始まり、来春にはまた昔のように田に戻る飛鳥の田のなかにはこのような一画もある。もしかすると、この冬の発掘対象になってるのかもしれないが。

慎みは奈辺にありや

のっぴきのならぬ色出て葛の花

これがなぜ季語になるのだろうか。

葛を見るたび思うのである。
「葛」は秋の季語だが、家そのものをも覆い尽くしてしまうような勢いの強いものに「もののあわれ」というものがどうしても感じられないのだ。たしかに葛粉の材料にはなって単なる嫌われ者ではないだろうが、それとてきちんと栽培用に手入れされてるのが条件だ。
いまではそんな担い手も少なくなって、野放図に勢力をのばしていることが多い。

害のある植物を駆逐したくて日本からわざわざ輸入した国があるそうだが、今では全国に広がりかえって迷惑な外来種となっているという話も聞いた。まるで、我が国に起こっている現象と同じみたいな話だ。
このほかにも、輸出物や梱包材などに混じって国を行き来する動植物が過去には考えられないくらい増えていると思った方がよさそうである。

そういう目で見ると、葉っぱの陰からちらちらとのぞかすあの外来種みたいに大柄な花も毒々しくさえ見えてきて、「葛の花」自体が独立した季題としての地位を与えられているのが不思議に思えてくるのだ。まるで、下心、劣情が丸見えのようで。

秋の音

バスハイク一団ばらけ草雲雀

今日は飛鳥晴れ。

彼岸花と飛鳥寺

飛鳥寺の鐘の音が渡って行く。
自分もと鐘楼に昇り、ささやかな浄財に見合うように控えめに撞いてみる。
それでも、耳のそばで鳴り響く音は体全体を振るわすには十分な重みがある。

秋の空気をまだ振るわせている鐘の余韻に耳をすませていると、やがてそれは虫の声に替わりわっと身を包んだ。

バスハイクの参加者には「百人一首談話室」の小町姐さんがいたので、その辺りをちょっと案内してお見送りした。

気の早い話

かかりたる辺りは知れる無月かな

いつになったら秋晴れが仰げるのだろうか。

秋雨前線が随分長く居座っている。
まさか、今年の仲秋の日(27日)まで続くとは思えないが、ここんところの異常気象である。想定をはるかに超えたことが現実に起きているわけであり、あり得ないことはないだろう。
そんなことを考えていたら今日の曇り空である。
名月の日の天気がこんな調子だったらと作ってみたのが掲句である。

薄曇りだったら月のいる場所くらいはぼんやりと見えるだろうか。
さらに最悪は当日雨なら「雨月」。
はたして今年は。