梅雨に入る

この樹肌慈しむかに蝸牛
素封家の庭のどこまで蝸牛

梅雨が近いと聞いていたがまさか今日とは。

驚いたが、しかし歓迎してもいい雨だと言える。連日真夏のような暑い日が続いていたのだから。
おかげで、庭の紫陽花が一気に色を増して目にも鮮やかに生き生きと映えて見える。ガラス越しに眺めていれば、雨に閉じ込められていてもいっこうに気にはならないものだ。
庭の水やりも手抜きもできるし、農家も喜ぶし、梅雨もまんざら悪いものではない。ゲリラ豪雨や土砂災害、集中豪雨の弊害さえなければ。

長い梅雨になりそうだが、うまく付き合っていきたいものだ。

奈良公園は走行注意

鹿苑を吹き行く風の梅雨きざす
枝なしつあるといへども袋角
袋角早きは枝をなしつあり

今日は奈良公園方面の吟行。

予定の万葉植物園に辿り着いたら何と今日は臨時休園だと言う。
遠目にも「花菖蒲開花」と大書した看板が立っているのにである。
このあと鹿苑の子鹿公開まで1時間以上間があるので、急遽春日大社本殿(造替工事のため神さんは留守だが)の特別公開に向かったが、信心の浅い身には拝観料千円はあまりにも高く踵を返して参道を彷徨う羽目になった。

鹿苑の入り口の子鹿誕生データによると、今日まで鹿苑で18頭、公園全体ではこの倍以上の子鹿が生まれたようで、今年は全体で200頭の見込みだという。
一方で100頭あまりが毎年交通事故で命を落としていると聞く。奈良へ車でお出での節はぜひスピードを落として注意して走行願いたいものだ。

気分よく梅雨を迎える

六月に入りて忙事の多きこと

今週末にも梅雨入りしそうだと聞く。

そう言えば、今日から月があらたまって6月である。
だから早々に梅雨入りしたって別に不思議ではないが、不意打ちをくらったような気がしないでもない。
ただ、梅雨期ともなれば外歩きもままならなくので、今のうちにやっておきたいことがいっぱいあるような強迫観念にとらわれてしまう。
まずは、髪を切ってすっきりしよう。

黄昏の空

昏れかぬる空に確かむ蚊食鳥

うす暗い空を背景に蝙蝠が飛ぶ。

蝙蝠を目撃できるのは黄昏時だけだ。とっぷり暮れてしまえばどこにいるのかさっぱり見分けが付かなくなる。
入浴の後、涼をとりに外へ出たら今年初めての蝙蝠を見た。

虫がいっぱい出てきて餌には困らない季節になったんだろうが、人間にとっては蚊に刺されるのがせいぜいの落ちだ。

天に代わって

吊鉢が仮の庵や雨蛙

住宅地に隣接する田の方向から蛙の声がさかんに聞こえてくる。

確認したわけではないが、おそい奈良盆地の田にもようやく水を張り始めたのではないだろうか。
そう言えば、いつもなら庭で声を聞かせてくれる雨蛙君の鳴き声を聞かないし姿も見かけないので、何処かへ行ってしまったか、死んでしまったに違いない。

そんなことを考えていると、今日ひょっこりと顔を見せてくれたのである。いつものようにランの棚に吊ってある鉢に水をやっていたら、半緑色の衣装に身を固めた一匹がこっちを向いているではないか。
鉢は冬の間は部屋に取り込んでいるので、春に外へ出したらいつの間にかやってくるという彼(または彼女)にとってはお気に入りの場所らしい。毎年寒くなるといつの間にか姿をけしてしまうが、よもや鉢の中で冬眠しているのではあるまい。

今日もまた真夏日に近く、例によって奈良盆地には雨がなかなかやってこずゲッゲッゲッという予告もまったくないので、それまでは毎日天に代わってせっせと水分補給してやらなきゃね。

あれもこれもは

藷植うに遅れとらざる嫗かな

直角に近い角度に腰が曲がっている。

歳はとうに80歳は超えているように見えるが、馴れた手つきで苗を埋め込んでいく動作には一定のリズムがありまだまだご健在の様子である。
またたく間に一畝植え終わると、乾燥除けの藁を敷き、最後には水やりして短時間の間に作業が終了した。

この季節苗屋に行くと色んな種類の藷苗が並んでいる。見るとたいがいが萎びているが意外に強いようで、畑に挿した後水さえきちんとやれば一週間もしないうちに根付くという。見ればあれもこれも植えたいと思うが、場所に限りがあるのが残念だ。

夢千代の町で

列島の先陣きって海開

昨日兵庫県新温泉町海開きのニュースを見た。

日本海に面し、鳥取県に接する兵庫県最西北部の町のようである。名前からしてもしやと思い調べたら、果たしてあの湯村温泉がある町だった。
海岸線は国立公園に組み込まれるほどの景勝地で、素晴らしいながめを楽しみながら浦々を走らせるには今が最高のシーズンである。
このあたりの名物、冬はむろん松葉ガニだろうが、今頃はカレイの干物とかがずらりと並んでいる光景が懐かしい。

梅雨入り前の海開きというのはまだ水も温んでおらず寒いのではというイメージがあるが、今年のように毎日30度を越す日が続けばすこしも違和感がなくごく自然のように思えてくる。