片時雨

葛城は時雨れ生駒は日当たれる

大神神社で「おんだ祭」があるというので三輪へ出かけてきた。

途中葛城山へ目をやると金剛山にかけて雪で真っ白だが、山頂から次から次へと雲が降りてきて西へ向かっている。葛城市や五條市に時雨を降らせているようだ。多分1,000メートルほどの山を越えるとき雪雲を生むのだろうから、大阪府側は晴れているか曇っているかに違いない。このように、山の一方が時雨れていて片方が晴れている場合を「片時雨」と言う。
一方の生駒山はと言えば、雲の切れ間から明るい日差しさえさしている。同じ盆地内でもこの対照的な天気はよくあるパターンのようだ。

帰りもまったく変わらない景色だった。

船ならぬ魚山に登る

逆さ富士魚氷に上る三合目

湖に氷が張ってしまうと逆さ富士は見えないものらしい。

ただ、雨が降って湖面が滑らかになったり、氷が溶けたらチャンスである。
「魚氷(ひ)に上る(のぼる)」は七十二候の一つで、凍っていた湖の氷が暖かくなって割れ、そこから魚が跳ね上がる様子のことで2月の中旬の頃をいう。だから、氷が溶けかかる時分に魚が勢いよく湖面をジャンプして、そのあたりはちょうど逆さ富士の三合目付近なんだと言うのである。
少々理屈がかった句で鼻持ちならない感じがしないでもないが、そこは遊び気分で。

この時期の似たような季題に「薄氷(うすらい)」がある。単なる薄い氷を言うのではなく、春になって氷も溶けかかりその厚さが薄くなってきて、しみじみ春を感じる様子を言うのである。

向こう三軒両隣

立春や豆の末路のあからさま
立春やよべの名残の隣家にも

キヨノリ君のコメントに書いたことですが、今日は外の方が暖かい感じ。

今夜から雨もしくは雪という予報ですので、ほんの一日の春を楽しんでいます。
朝刊を取りに出ると、昨夜撒いた豆たちが、通勤の人たちにでしょうか踏みつぶされて歩道に張り付いていました。

最近の二重サッシの窓ではさっぱり外の声が届かないせいか、昔のように「あ、お隣もやってるな」という風情・余韻が伝わってこないのがちょっとさびしい気がします。セキュリティの厳しいマンションの節分、これはこれで句になると思いますが、どんな風なんでしょうか。

鰯の頭

柊を挿す家の札の篆書かな

戒壇堂近く、旧家とおぼしき家の立派な門に柊が吊られている。

鰯の頭こそ無いが今日はまさしく節分。
表札は真新しく篆書体で書かれているようで、下は「野」と読めたが上の字がどうしても読めない。

大仏殿まで行ったところでタイムアップ。後で聞いたが、二月堂に行けば節分会があったらしい。

後日談)漢和辞典「字源」をアマゾンで購入。旧仮名遣いだけど、よくできてる辞典です。家人の書道用にと買ったものですが、漢和辞典というのはほとんど使ったことがないので(部首索引とか苦手なんです)、辞典は古くてもなんだか新鮮な感じです。
それでも、隷書体はやっぱり読めません。

梅と弁当

探梅やいまだ開かざる食事処
探梅の三脚肩に堪へくる

来てみたけれどちょっと早かったようだ。

せめて食事でもと思うのだが店もまだ営業してない。
桜と違って梅を見るのに弁当を持ってくることはまずないから、売店にも見放されては長居は無用。また出直すほかあるまい。

忖度

風花を美しと称ふる酷さかな

人は風花を美しいものだと言う。

歳時記に季題として採用されているほどだから花鳥諷詠に適うのだろう。
だが、それは太平洋側に住み雪掻きもしなくて済む人間だけにしか通用しないのではないかと思うのだ。

ある意味傲慢とさえ思えて仕方がない。あるいは、苦しむものへの応援歌なのだろうか。

生中継

瑞穂てふ国持ち上げて霜柱

NHK朝の気象情報は建物を飛び出して生の天気を見せるのが面白い。

とくに何十年も東京で生活していた私には、渋谷の今を空や街の様子を交えて流してくれるのは、懐かしさも伴ってすごく親近感が湧いてくるのだ。
先日も敷地内と思われる土を持ち上げる立派な霜柱の中継があった。東京も今朝は冷え込んだことがよく分かるし、そうなるとよく歩いたり自転車で流したあたりの光景も目に浮かんでくるようで、いろいろ想像も楽しい。

掲句は、そんな目で見ていると今朝は日本の国のあちこちが霜柱によって持ち上げられてるんじゃないかという妄想から生まれたものだ。