置配

はだかにてインターフォンと話しけり

ちぢみにステテコ。

これが昭和のおじさんの夕涼み。
現代はTシャツに短パンというところだろうか。
エアコンを使うのでさすがに裸で過ごすと言うことはなく、上下一枚ずつが定番である。
たまに汗拭きなどしていたりして、タイミングが悪いと宅配便が届いたりする。
そんなとき、コロナ禍を機に置配という便利なサービスができて表に出ずに済む。

夏バテ知らず

思はずも時計見上ぐる昼寝覚

二時間近く寝たことになる。

外気温と室温の差は八度くらいか。
じりじりと灼けてくる外に出る用もなく、何するとなく座っているといつの間にか眠りに落ちていたようである。
昼寝は短時間がいいと言われるが、もともといったん寝るとなかなか目覚めない質なのでこれはどうしようもない。
夜は夜で寝付けられないということもなく、しっかり寝てられるのが夏バテしない要員かもしれない。
しかも暑くても食欲はしっかりあり、とくに昼は冷たいものでももりもり食べているのも体力維持に一役買っているのだろう。
夕方には一時間ほど畑で過ごし、一汗かけば昼寝による胃もたれも解消。
ばてることなくこのまま酷暑を乗りきっていきたいものである。

雨を恋う

プロの手の正しき樹形百日紅

日中あまり出歩かないので見る機会が少ない年である。

百日紅の乱れた姿というのは見るにも暑苦しい感じがするものだが、職人の手できちんと刈り込みのされたものとなると話しは別である。
枝の混むでなし、かといって貧弱でもなし。枝垂れかかった枝振りには逆に涼しささえ感じてしまうことがある。
ただ、庭木であれば毎日の水やりも欠かさずお世話もできるが、今年はとくに街路樹が可哀想なほどである。
隣町には夕立が来てもこちらは素通しされる日々が続き、人も動物も樹木も花も野菜もみなげんなりとしている。
いつになったらお湿りがあるのか。

ピーク過ぐ

昃りてかなかなもまた鳴きそむる

虫も人間も同じかなと思った。

昨日は曇りがちでそれまでの体温を超えるような高温から解放されたのであるが、加えて少しの風でも出てくると今日は涼しいなあとしみじみありがたく思う。
蜩も同じと見えて、谷筋に風が渡ると少し遠慮がちに鳴き始めたのである。私にとっては初蜩で、毎日の厳しい暑さの中にも秋が忍び込んできているのだ。
今日もよく晴れて日差しが強烈だが、一昨日までの息苦しさはない。今年の夏のピークを打ったのだと確信するのであった。

四面クマ

落蝉のつまめばぶると一度きり

この朝舗道に蝉が腹を見せて転がっていた。

そのままでは灼熱のコンクリートに焼かれて塵となるのも可哀想と思い、拾おうとしたらぶるっと一度だけ震えた。最後の力をふりしぼって抵抗したのだろう。そのまま手にのせて近くの茂みにそっと横たえてやった。鳥がめざとく見つけて持って行くかもしれないが、できれば五体が無事に土に還ることを願って。
今日も朝から顔の高さにも四面熊蝉だらけである。
この落ち蝉が今年初めて見る油蝉であったことになぜかほっとした。

ここ一番の

世事遠き身にもしらるれ鰻の日

故郷の名産の鰻真空パックをいただいた。

今日は土用の丑にあたるので、この滋養に富むといわれる鰻が食卓にのぼった。
ことしほど土用というものと、その暑さとの結びつきを身に沁みて感じたことはないのでまことにありがたくいただくことができた。
何もしていなければとても出かける気にもならない暑さでも、毎日必ず菜園へでて大汗をかくことができるのも、健康であるたまもの。
この日日蓮宗のお寺では焙烙灸と呼ばれる、頭に鉢を担いでお灸を受ける、いわゆる土用灸という慣わしがあるそうである。これも、夏の土用にお灸をすえると効き目がいいと言われ、ここ一番がんばらなければならない時期の滋養獲得のならわしであろうか。

カラカラ

片陰を出ろと電柱仁王立

少しでも陰にいたい。

そんな日が延々と続く。永遠に続くのではないかとさえ思える。長期予報では10月も気温は高いという。
今年も秋は短く暑い暑いと言ってるうちにあっという間に冬がやって来そうだ。
人と会えば交わす言葉が申し合わせたように「暑いですねえ」。
暑い上に天の恵みの水もなく、胡瓜もトマトもどんどん終わりの時期を迎えてきた。茄子も秋に備えて早々と更新剪定。
干からびてカラカラの畑は見たくないものだ。