清涼剤

青梅の落ちてもぎ採るるかさもなし

いくつか実をつけていたのでもしやと期待していた。

ところがここのところの雨が多いせいか、あるいは風が強かったか、足もとに来てみればまだ固い実のままでずいぶん転がっている。
一キロくらい採れれば今年も梅シロップを楽しめるかと期待していたのだが、期待のままで終わりそうである。一キロ程度なら買ってくればいいものだが、買うとなるとやはり最低二キロくらいは欲しい。自前だからこそ貴重だと思えて一キロで我慢できるのであって、買ってまで時間をかけてシロップを作るとなるとやはり物足りないのである。
昨年仕込んだシロップがそろそろ飲み頃を迎えてきた。梅雨どきのじめじめとした鬱陶しい時期、汗もなかなか引かない風呂上がりなどにコップ一杯の梅ジュースはすかっとするものだ。自宅では呑めない口なので梅ジュースは蒸し暑い夜の清涼剤となる。

競演

ほととぎすここは譲れぬ声比べ

時鳥の鳴き声というものはすぐに遠ざかってゆくものだ。

なぜなら、彼らはもともと渡りの習性があるうえに、一カ所にじっとはしないで山里、棚田などを渡り啼くものだから。鶯も藪など低いところを移動する習性があるが、時鳥ほど速くはないし、自分の縄張りを主張するときなどはまず動かないで佳い声をいつまでも聞かせてくれる。
時鳥と言えば、夜中の夢うつつのなかで聞きとがめてもすぐに声は遠ざかっていく。啼いてるなと思っても声の主はつねに移動しているので長くは楽しめないものだ。
時鳥の句には久女の有名な句、
谺して山ほととぎすほしいまゝ 杉田久女
がある。おそらくこれは山峡をこだましながら渡っているからながく聞こえたにちがいないと想像する。
ところが渡り途中の二羽が出会うと、縄張りを競うかのように延々と鳴き比べすることもあるようだ。こうなるといつまでもつづく夢の競演となり、いつのまにかその虜になって聞き惚れてしまうことになる。過去に一度だけしか経験したことがないが、あれは決して忘れられないくらい貴重な時間だったようだ。

絶え絶え

コンプレッションウェアに触手の炎暑かな

突然の暑さ。

午前中こまごま動いただけで、午後はもう予定もくそもなく休息と決め込んだ。
各地で熱中症でかつぎこまれる一日だったようで、ここ盆地も例外でない。むしろ盆地という形状から気温急上昇が激しい。
二日前に雷雨がしっかりあったわけだし、土が乾いているわけではないのに定植まもない苗などは根がまだちゃんと張り切れてなくて、どれもぐったりして息も絶え絶えのあわれな姿を見せていた。
人も草も急激な天候変化に振り回される。そんな時代の真っ只中に生きているのだ。

上皇ご夫妻

自転車道碧く塗られて青葉風

久しぶりに斑鳩方面へ出かけた。

平坦でだだっ広く、基壇部分だけ高く盛られただけの元中宮寺跡には何棹もの鯉幟が初夏の空を泳いでいる。
手許の気温計を見ると31度。真夏日である。ただ、湿度も高くなく、心地いい青葉風があるので窓を開けたまま走っていても少しも暑くは感じない。
道路が空いているからだが、夕方ニュースを見ると午前中には上皇ご夫妻が中宮寺を訪問されたとのこと。法隆寺前の松並木参道の両側にはおおぜいのお迎えの人たちが映されたが、その時間帯でなくてほんとうによかった。

日照り雨

そばへして雷の夕立きたりけり

贅沢な天気の日だった。

ようやく雨が上がって晴れたかと思うと急激な気温上昇。さすがにこれは体にこたえる。
鉢の植物がいっきに元気がなくなるのもこんなときだ。雨をたっぷりふくんだまま、いわゆる高温多湿に見舞われると繊細なものにかぎって萎れてしまうことがある。蒸れによわい仲間がそうである。
そして、夕方文字通り夕立があって、その前触れがこの時期としては長く続く雷が上空にとどまった。その夕立もいわゆる日照り雨で、その極端な差は狐の嫁入りというようなやさしいものではない。
夕方の斜めからさす光が家々の壁に突き刺すように明るいのに雨は土砂降り。盆地のこの一画だけ、スポット的に強い雨が降り続けて30分ほど。夕方の光だけを残して雨は止んだ。

悔やむ

卯の花の日差めぐまれ参観日

新興団地から夫婦連れ、ときには幼い児の手を引いて学校へ向かう集団の列。

昨日の話だが、どうやら近所の小学校の授業参観日だったようだ。
ほとんどが夫婦揃ってというのが我らが世代とおおいにちがう点である。我らのときはほとんどが母親が出席でたまに父親が混じる程度。土日休みどころか半ドンですらない大黒柱が多かったので必然的にそうなったのだ。
子育ては母親任せという認識が長くつづいた背景もあったにちがいない。我らも親世代と似たり寄ったりで、私もやはり参観日に出た記憶がほとんどない。今となって一回くらいはわが子の様子など見ておきたかったとちょっぴり悔やむのであるが。

当方事情にお構いなく

明易のスマホに顔の照らさるる

夜中のメールなどで目が覚まされることがある。

一体何なんだとスマホを開けてみると、寝ぼけ眼には眩しくてたまらない。
緊急性がない内容だといらだたしくて電源を切ってしまうこともあったり。
スマホ、あるいはもっと昔のガラパゴス携帯以来、当方の事情などいっさい関知せず一方的な呼び出しを受けることがふえて大迷惑である。かと言って、いまどきの緊急警報などは万が一に備えて受けるようにしておきたいという欲もあって、その兼ね合いが難しいところでもある。
黒電話の頃は、夜にはよそさまには電話してはいけないという社会の暗黙のルールがあり、私生活の安寧は守られていたのだが、携帯時代になってどこでもいつでも受話器が鳴るのにはいささか閉口である。
私は基本が固定電話。携帯は受信と使い分けていたのだが、世間が携帯中心になってきているのでやむなくつきあうことも多くなった。電話会社の競争で、電話ホーダイというサービスが増えたことも長電話につながったり迷惑なことである。