見切り

霜枯れて零余子の蔓のぶうらぶら

一夜で見違えるほどの萎れようである。

顕著なのは馬鈴薯の葉。萎れたうえに先端が真っ黒である。
こうなるともう薯の成長は見切って掘ることにした。
暖かい日が続いたせいか形はもうひとつ小さいようである。それでも、何ヶ月かは食べられるくらいのものは穫れた。
おなじ薯でも自然薯を栽培しておられる区画もある。こちらも今が収穫期で、穫るには小さすぎて残されたままの零余子が、枯れかけた蔓に風で震えている。
菜園では少しでも体の動きを止めるとすぐに寒くなるように、いよいよ冬ざれてきた。

めいめい

不揃ひは漬けると婆の冬菜畑

冷え込んできて冬菜の収穫時期となった。

めいめいの畑で春菊、大根、小蕪、小松菜などとりどりの冬菜がいちだんと甘くなる季節。
夕方に来ては幾ばくかの菜を摘んで帰るひとが多く、スーパーなどのポリ袋からあふれんばかり。一目で今日は鍋と知れる品目がのぞいたりして、それぞれ味自慢。
夏野菜とちがってそめいめいの冬菜がそれぞれ違っていてそれもまたいい。

あいつ

動かすなそこは蛙の冬眠中

うかつにも起こしてしまった。

冬眠ちゅうの蛙をだ。意外にもプラパレットの下に眠っていた。土の中でなくともそこが安全安心ならいいらしい。
蛙にすればいきなり布団を捲られてすぐには事態が飲み込めない様子。いやいやすまんことをしたとすぐに元に戻したのだが、あれからどうしただろうか。
夏の間あれだけたくさんの蛙がいたのだから、どこに潜んでいたとしても不思議ではなくむしろどこにでもいると思わねばなるまい。
いつも庭に顔を出すあいつも身近なところで冬眠中にちがいない。

第三者頼み

手帳買ふ妻の師走のきたりけり

日記はおろか手帳さえ買わなくなって久しい。

手帳を買ったところで持ち歩くわけでもないし、すると予定を書き込んでも開くこともないので見落とすばかりである。むしろ今ではほとんどマスの大きなカレンダーに書いてたほうが見落とすことも少ない。
一番大きな効用はそこへ書いておくことで家人がチェックしてくれることである。「今日は何時からどこどこクリニックだよ」とか。いちいち覚えていなくてもリマインダー役を家人が果たしてくれるのである。
つい先日、脳のスキャン検査をしてもらった家人が空洞もなく年齢よりずっと綺麗な状態であると言われて上機嫌で帰ってきたが、それでも手帳はいまだに手放せないようである。
記憶を他人に頼っているといよいよ先におかしくなりそうである。

海の牛乳

牡蠣吸ふて育ちし海を推りけり

齢とともに牡蠣がうまくてならぬようになった。

さいわいにもアレルギーもなく、どんな料理でもいただける。
好きなのは生牡蠣だが、近くの店ではめったに手に入らないのが残念である。
達人によると舌でおおざっぱな産地を当てるそうだが、近年は三陸、広島以外でも頑張っているようで素人には大きさだけでははかれなくなったと言える。
食いしん坊にはうまければどこの産地であろうといいのであるが、産地をイメージして食すると旅の印象も加わって悪くはない。

出汁済々

翌る日は麺のおつゆのおでんかな

昨日の夕食はおでんだった、

そうなると決まって今日の昼飯はうどんまたは蕎麦になる。
おでんの出汁のほかに、練り物、野菜、昆布など様々なうまみが溶けこんだおつゆが最高なのである。
而して、きょうはいただいた蕎麦である。
今日のように一日曇りがちで、家にいても寒い日はあったかいものにかぎる。

油断

初霜に後れとつたる庭のもの

油断していた。

暖かい日が続くものだから気のゆるみがあったか。
霜対策もせずにいた鉢物がげんなりしている。
なかには寒さに弱く部屋に取り込まなくてはならないものもあって、気の毒をした。
畑のジャガイモの葉も、みごとに黒く萎びてしまってはもう大きくは育つまい。試しに掘ってみると案の定小さい玉がほとんどで大きな玉は数少ない。
自然を相手にするには最新の注意が必要であることをあらためて勉強することとなった。