全山寺院

膝病んで床几所望の棚経僧

大神平等寺の住職が盆供養にお出でになられた。

永平寺でも長年重職をつとめられ二三年前に地元に戻ってこられた老師である。
この老師はたいした人物で、廃仏毀釈でつぶされた大神神社の神宮寺のひとつ平等寺を再建され、いままた多武峰妙楽寺の本堂を再建されたばかりである。この妙楽寺は7世紀に鎌足の長男・定慧が父の墓を改葬し今の談山神社の十三重の塔を建立したのが始まりで、全山が堂宇で埋め尽くされた巨大な寺院であった。明治の初めに打ち壊され今では木々に埋もれてしまったのであるが、その一画、談山神社の十三重の塔を見下ろす位置に新しく本堂が成った。この秋にも落慶法要が営まれる予定だと言うが、コロナ禍の今どこまで盛大にできるか心配されるところである。
そのお元気な住職が、いつもなら端座されて老々としたお経をお唱えくださるのだがことしは腰掛けを所望された。仏壇に向けてちょうどいい高さの床几もなく、食卓の椅子でご容赦願うことになったがお声はいつものようにご健在であった。

這い寄る

裏見せの初きちかうとなりにけり

庭の桔梗が一輪咲いた。

青紫が初々しい。
一度葉っぱが全部虫に食われたが、息を吹き返したようだ。
ただ残念ながらそっぽを向いている。外側に表を見せているのでこちらからは裏見になる。
梅雨明けはまだまだという感じだが、秋の気配がしずかに這い寄ってきている。

食感

ラ・フランス追熟させて到来す

洋梨はいままで苦手であった。

が、最近毎年この時期になると飯田のものを贈ってくださる方がいて、これが今までのイメージを覆すほど匂いが気にならなくてうまいこと。
甘さと酸っぱさの絶妙なコンビネーションで、これは収穫後10日ほど成熟させて生まれる味のものらしい。
コロナに頭を押さえつけられている鬱憤を晴らしては、またひと口。すこし舌にざらついた感触があるのもまた独特の食感。一個がまたたく間になくなってしまって、あとはまた朝のお楽しみ。

時代劇そして歌謡曲

歌番組かけて蜜柑に手の伸びる

蜜柑がおいしい季節となった。

どうも走りの青蜜柑というのは酸っぱかったりしてあまり手が伸びないが、これから正月にかけて甘味を増した蜜柑が多く出回ると一度に二三個はぺろりといける。
蜜柑といえばテレビ、それも家族みんなで楽しむ歌番組というのがかつての典型的な家庭団欒の姿。
NHK/BSを見ていて時代劇が歌謡曲番組に変わり、今日の一句を思案していると自然に蜜柑の皮をむいている自分に気づいての一句となった。秋の季語であるが、自分には正月を中心に食うものとして冬のものというイメージが強い。

秋色

田仕舞の煙たなびく裏生駒

生駒の山腹をキャンバスにして幾筋も煙が上る。

平群谷の秋の色もいよいよ深くなった。
奈良公園では早くも紅葉の見頃マークがついて、例年より半月以上早いような気がする。
ぼおーっとしていたら、紅葉前線に追い越されてしまいそうになっている。
短い秋もはや終わろうとしている。

SDGs

敗荷の昨夜の名残の雨光る

蓮根がうまい。

歯ごたえもさくさくと軽く食べやすい。新蓮根の季節である。
幸いにも歯には問題ないし、いまだ嚥下機能には困らないので、よく噛みしめて味えば旨さがさらに増してくる。
もともと旬のものをいただくことは、夏には体を冷やし、冬には温めるという天恵の理にかなうことである。
原点に帰って季節のものをいただくことが持続可能性のある生き方であると言えよう。
ひるがえって急にSDGsという言葉を聞くようになった。国連のSustainable Development Goalsという2030年までに達成しようと言う目標らしいが、2050年までに脱炭素社会の実現をという現政権の目論見との関わりはどうなってるんだろうかと頭を捻るばかりなんだが、さて。

紅葉始まる

桜紅葉煉瓦庁舎の同化して

今年の紅葉は早いように思う。

我が町の庁舎のうち、煉瓦タイルを壁面にめぐらした健康センター、体育館兼文化会館、プールなど文教関係の建物が一画に集まっていて、それらを囲むように植えられた桜がいっせいに紅葉してきた。
煉瓦造りの建物が大和川沿いに並び、これらが対岸からも映えてなかなかの眺めなのだが、紅葉の季節ともなるとさらに建物とうまく一体化するように目を奪うような光景を見せる。
春は春で艶やかで派手な雰囲気もいいのであるが、秋のこの瀟洒でいて心落ち着かせるような佇まいも好ましい。