ここだけ歳晩

がらり戸にリースの町家はや師走

洒落た町家があった。

見た目は町家だが、なかは建築事務所とある。
おそらく町の景観に溶け込むような意匠にした建築事務所兼自宅なのであろう。
通りに面した部分が車庫、その奥が前庭風、これを和風の格子戸風扉でカバーしている。日常の出入り口となっているのが脇のがらり戸らしい。
がらり戸とその奥はきれいに掃かれていて、住む人の感性を思わせる佇まいだ。

建物も町家風だが、がらり戸の格子にはクリスマス用とも思われるバラのリースが早くもかけられて、まだ師走の街騒が感じられない奈良町にあってここだけは歳晩風景を醸し出している。

廃家となって取り壊される町家も見られるが、旧の風情を残した新しい袋に新しい酒が醸されているのも奈良町の今日である。

歓迎すべきこと

奈良格子奥に小暗き冬座敷

奈良町を歩いていると「奈良格子の家」として公開されている家に出会った。

通りに面した部分は角を荒く削った太い格子によってめぐらされている。
建物との距離は10センチ以上はあろうか。
これは、かつて春日大社の神鹿が神域のみならず街中も徘徊していたので、建物も鹿も保護するのが目的で考案されたものだそうである。

この日は格子の内側の戸が開かれていて、通りから鰻の寝床のように奥行きのある町家の座敷の奥まで見通せるようになっていた。うす暗い三間くらいの続き間の先にははっきりと坪庭が見通せる。

外人観光客数人が訪れていて、このような古い町家にまで外国人が関心を寄せるようになったのに驚く。有名観光地一辺倒のサイトシーイングから地に着いた文化への関心へ。
インバウンド消費もいいが、文化を通しての日本理解が進むこともまた大歓迎である。

元興寺

凩の鰐口なぞる奏かな
萩枯るるままに僧房静まれる

元興寺極楽坊跡を訪れた。

凩ほども冷たくはない風が騒いだかと思うと、堂の正面の軒に吊した鰐口が微かに鳴った。
鰐口というのは神社などにお参りしたときに鳴らすあのジャラジャラである。
綱には長い五色の領巾がついており、これが風にあおられて綱を揺らし鰐口に撫でるような触れたのである。

もう一回聞きたいとしばらく佇んでみたが、音はそれっきりだった。
気を取り直して堂の周囲を見回してみると、大きく広がった萩がまさに枯れようとしている。
そう言えば、ここは萩の寺。
元興寺は元々法興寺(飛鳥寺)から平城京に移築されたもので、堂の瓦には当時のものがまだ使われている。時代を経て何度も修復されたのだろう、時代時代の瓦も混じってまだら模様になっているのがちょっと離れたところから眺めるよく分かる。

戦乱で焼けた跡は強力な後援者もないまま人々が住み着き奈良町の元になっている。

朱印所の小屋に覆いかぶさるような南京櫨はすっかり葉を落とし、小さくて白い実だけがはっきりと見えた。

得んとせば

奈良町の坂町と知り小六月
奈良町の坂慈しむ小春かな

毎月第一火曜日は定例の吟行。

12月は奈良町の歳晩風景、1月は東大寺・春日大社の新年風景と決まっている。
毎年のことなので句材も尽きるのではないかと思われるが、日付、曜日も違えば、天気も違うわでメンバーが拾い上げてくる句には新しい発見に満ちている。

たしかに、奈良町には坂が多いことをあらためて知ったのも今日のことで、なるほど句材というものは探せば何処でも幾らでも見つかるものなんだろう。
犬も歩けばではないが、兎に角外へ出さえすれば何かに突き当たるということか。これを敷衍すれば行くところすべてに句材があり、出たけど句材が何もなかったというのは単に観察が足りないか、あるいは臨む姿勢が問われていることを自ら晒しているにすぎないのかも。

木の実降る径

石佛の御名をたどりて秋惜む

以前にも書いたことだが、白毫寺境内の奥には石仏の路と称する一画がある。

古い石佛が並ぶ径は山懐に続くので、この時期は木の実がしきりに斜面に降ってきてその転がる音が楽しめる。

露けしや御身欠けたる石不動

石佛の径は10メートルほど行くとすぐに尽きて、そこに不動明王さんが祀られている。
雷にでも打たれたのか、頭部の天辺部分が鋭角に欠けてちょっと可哀想。
御利益があるというので、寄らせてもらって頭を下げてみた。

奈良三銘椿

実のひとつ二つばかりに名の椿

樹齢四百年とされる白毫寺の「五色椿」。

天然記念物にも指定されている木は高さおよそ5メートル、樹冠も約5メートルで柵で保護されている。
花の時期は桜より幾分早い3月下旬からで、いろいろな色の八重咲きを見せてくれるところからの命名だ。
東大寺開山堂「糊こぼし」、伝香寺「散り椿」と並び奈良三銘椿の一つとされているそうである。

晩秋の境内にはいろいろな鳥がひっきりなしに訪れてくれるが、この椿にも寄ってくれて花のない時期を賑やかにしてくれる。また、椿には秋に実から油を採ることから季題になっているので、その実がついてないかどうか確かめたところ、わずか一つ二つばかりが枝の間から見えている。古い木だけに負担がかからないように枝や葉数も抑え、花の数も抑えているようだ。だからか、すっきりした樹形で奥の方まで見透かすことができるようになっており、もう他には実は見当たらないようだった。

根元の苔には小春と言える柔らかい日差しが届いていた。

皇子ゆかりの

皇子偲ぶよすがの歌碑に秋惜む

白毫寺は高円山の麓にある。

境内には、その高円山に向かうように万葉歌碑があった。

高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに 巻2-231

白毫寺はかの天智の志貴皇子別邸跡だという伝承があり、皇子がなくなったとき笠金村が詠んだ歌だとされている。萩をことのほか愛した皇子がいなくなって、高円のあたりに咲く萩を見るだにせつなくなるという歌だが、この歌碑が向いているのはその墓のある春日宮天皇陵(正式には田原西陵)だと札書にある。高円山の後背約3キロほどにある山間の地である。

皇子がなぜ天皇と称されたのか不思議に思ったので調べてみた。

天武系最後の称徳天皇が亡くなって、志貴の第六子白壁王が即位し光仁天皇となった。以降天智系の世が続くわけだが、その光仁が父に春日宮天皇の称号を贈ったからと知った。光仁自身も田原東陵に葬られている。
近年太安万侶の墓が発見されたのは、その両陵の間にある茶畑からである。

そのような歴史に思いを馳せながら高円山を眺めていると、権力争いから距離をおきながらも二品にまで上り詰め、かつ多くの万葉秀歌を生んだ賢明でいて繊細な皇子の波瀾の人生を思わざるを得ないのであった。

と、そんな感興に浸っていたら、歌碑の裏手を訪うものがある。笹子だ。

高円の野辺の変はらぬ笹子かな

白毫寺裏手はそのまま高円山につづく森となっていて、人の手もあまり入ってないように思える雰囲気がある。