熊野速玉神社

初売の熊野梛とて古梅園

奈良は墨の都。

古梅園というのは、墨製作がそれまで独占していた寺社勢力が衰えるのに伴い、信長や秀吉が民間の産業振興策として奨励したのにあわせ天正年間に創業したという老舗中の老舗である。江戸時代に入り、南都奉行もおおいに奨励して奈良町を中心に多いときには40軒を数えるほどに隆盛したという。

若草山の麓を歩いていると古梅園の看板があるので、買う気もないのについ店に足を踏み入れてしまった。とても種類が多いことにまずびっくり。さらに昔学校で使っていたものとはちがい値段も相当良さそうである。
ここでもワゴンセールがあってキズありだというのが2,000〜3,000円台で売られている。墨なんていうものは摺ってしまえば皆同じなので、稽古用にはなんら差し支えはあるまい。書道をたしなむ家人用に買って帰ろうかとも思ったが、何しろ用途別に種類が多くてどれにしてよいやらさっぱり見当がつかないので、結局冷やかしのまま失礼することにした。
帰宅してからホームページを見てみたが、門外漢には結局墨というのは大変奥が深いということしか分からず仕舞いであった。

ところで、梛(なぎ)は熊野権現の御神木になっており、その葉は魔除け、お守りとして携行されていたそうである。梛の墨とは実から採れる油から作るものらしい。

もう一つ新知識。新宮市にある熊野速玉神社(小学校の時の修学旅行先)はその昔今のところより南にあったものを移したものだそうで、「新宮」。それが今の市名になっているそうである。御神木は平重盛のお手植えでもあるそうで、もし本当だとすれば樹齢1,000年程度になる。写真で見る限りでもたいそう立派な御神木のようだ。

今日は「奈良検定初級」の試験日なので予約投稿。こういう話もいろいろ受験対策になっているはずだが、さて。

築地塀の中で

姫石榴実の裂けしまま冬枯るる

姫石榴というのは園芸品種で、名の通り花も実も小ぶりで鉢仕立や庭植えにされる。

したがって、実を収穫して食するなどということは期待されてないわけで、たまたま見つけたものは霜に打たれたりして紅黒くひからびた姿をさらしているものだった。

白い築地塀のなかの光景で、かたわらに若々しい蕾を次々に開かせている蝋梅があった。

氷面鏡

神鹿に御慶述べゆく句友かな

吟行句会でよくお世話になる奈良公園。

この日は放射冷却の厳しい朝だったが昼間は晴天、しかも風もほとんどないという絶好の吟行日和。霜解けの公園内のかしこで鹿が日向ぼっこしている。出会う鹿を見つけては「おめでとう」と声をかける仲間もいて、約1万歩の吟行も無事に完了。

それにしてもベテランの方々の言葉をよくご存じであること。この日は大仏殿東にある池も凍っていて、日の射している部分は解けているのだが、大きな杉の木の影になっている部分は凍ったままだ。この景をなんとかものにしたいと粘ってみるが、時間切れ。
披講となって、同じ光景を詠んだと思われる句が読み上げられてハッとさせられた。

大杉の陰に残りし氷面鏡

なるほどなあ、と眼から鱗の思いであった。

初句会

ハングルも英語の絵馬も初詣

絵馬を手にとって願意を読んでみた。

今日は近鉄奈良駅から東大寺二月堂、春日大社を巡る吟行初句会。誰々さんのお嫁さんになりたいという真剣(?)な願いもあれば、ガンが治癒しますようにとの切実な願いも。人さまざまな願いを込めたそれぞれの正月なのであろう。
なかには、ハングル語で書かれたものや英語のものも。

ともあれ、松の内は平穏に過ぎてゆく。

元興寺小塔院跡

からたちの実の涸ぶりて門鎖す

からたちの実の錆びしまま無縁仏

もと元興寺の伽藍跡地で残されている数少ないもののひとつである。

荒寺に哀れをさそう遊女の墓があるというので案内してもらった。話では、墓というよりはただの石塊ばかりであまりにかそけくて言葉もないという。
残念だったのは、どういうわけか今は私有地になっているとかで、中へ入れてもらえない。「史跡元興寺小塔院跡」という案内表示板があるのにである。
何だか割り切れない思いに立ち去りがたくいると、跡地に続く道には葉の多くが落とされてやや黄をおびた棘ばかりがめだつ枳殻の生け垣が続いているのが目にとまった。その棘に守られるように直径二センチほどの実が成っているのだが、もう萎びてひからびそうになっていた。

遊廓跡で

霜の菊廓格子の塞がれて

ならまちの外れにかつて遊廓があったというので寄ってみた。

もちろん、現在では遊女宿の多くが個人の家やアパートに立て替わっていて、なかには昔のままの建物に手を入れて現在も住宅として使われていたりするものもあるのだが、教えられなければそれがかつて遊女宿であったということは分からない。

廓格子というのは遊女の逃亡を防ぐために細かい格子がはめられているのが特徴なのだが、掲句は、通りに面したある部分だけが塗り壁などで塞がれているものがあり、かえってそれが廓格子の跡であり遊女宿であったことを教えるのに十分であったことを詠んだものである。
売られてきた遊女の出身というのは五条や十津川など奈良の奥深い所であったりしたのだろうか、そんな古い昔のことを考えているうちに、そこは早く立ち去るほうがいいよと言う声がするように思えて長居することはできなかった。

なお、格子と言えばいろいろなものがあり、奈良町にも「なら格子」と呼ばれる独特のものがあるのだが、それはまた別の機会に紹介したい。