スマホ写真

牡丹園ペットとともに自分撮り

今日は長谷寺吟行。
長谷寺の牡丹
牡丹守のお話では今年はここ数年でも最高の出来だそうです。そのせいか、2万本近くの花の艶やかなこと。毎日のお世話もあって最高のコンディションを維持しながら、あの長谷の谷間の斜面に段々と牡丹園が展開するのですから、下からも上からもよく見通せて溜息がでるほどです。

今の長谷寺は牡丹の他にも、石楠花、芍薬、若葉、鶯、竹の秋等々、句材が目白押し。句材多くとも佳い句が生まれるとはもちろん限らないわけですが、時間をかけて燻せば満足できるものに近づけるのではないかと思えてきます。

掲句はとても俳句会のレベルでは採用とならないのですが、犬を高く抱きかかえながら若い人がスマホをかざして自分撮りしているのが大変微笑ましく即興で詠んでみたものです。

佐保川そぞろ歩き

万葉の歌碑確かめつ桜人

今日はエイプリルフール。

もとい、まほろば句会。
佐保川の長堤を遡りながら春の句を詠もうというわけだ。主役は桜。約5キロにわたって見事な桜並木で、なかには奈良奉行が植えたという160年ほど前の木もあって、カメラを持った人、ハイキングの一団、犬の散歩をかねてのウオーキングする人、外国人グループなど、平日でもけっこうな賑わいだ。
万葉歌碑がところどころ置かれているのもこの佐保川の特徴。万葉仮名で書かれているものもあるが一首ずつ読みながらのそぞろ歩きも楽しい。見事な柳が芽吹く、その木の下には、

打ち上ぐる佐保の川原の青柳は今は春へとなりにけるかも(大伴坂上郎女 万葉集巻八の1433)

犬養孝揮毫の歌碑があった。

見過ごしたもの

腹這へるカメラアングル蕗の薹

梅と椿が咲き誇っている華楽園に入ってすぐ左の足元に、蕗の薹がいくつか顔を出しているのを見つけた。

柵も何もしてなくて、気がつかないでいると踏みつけてしまうような場所だったが、見学客の大半は入って正面の唐風呂やその手前の満開の山茱萸には目が釘つけになるのが幸いしてか、どれもが無事に頭をもたげている。

帰り際、その気づかないでいれば見落としそうな蕗の薹を、腹這いになってカメラに写し取ろうというアマチュアカメラ愛好家がいた。句会では、この蕗の薹のことを話題に持ち出したり詠んだものがいなかったので、ここの蕗の薹に気づいたのはもしかしたら僕だけだったのかもしれない。

落花狼藉

大輪の潔く落つ椿かな
落ちてなほ気品を放つ椿かな

法華寺の庭園・ 華楽園は今椿の盛り。

紅がぐっと凝縮されたような「紅詫助」の蕾。一方で、大輪の花が落ちても精気を失わず、その落花狼藉ぶりにもどこか気品があるような佇まい。椿は枝にあるものよりも、地に落ちたもののほうに目が行ってしまうのが不思議だ。

メジロが渡ってきて高い木の天辺で例の「キリキリキリッ」という声が聞こえてきたり、白梅の蜜を吸っている姿などを見ると、もうすっかり春だなあと思う。

法華寺

雛壇の媼の白髪豊かなる

今月の吟行地は光明皇后創建の法華寺

総国分尼寺として建てられ、以来由緒ある門跡尼寺として代々今日に至るのであるが、ちょうどこの時期歴代の門跡が拝領した雛や雛調度の数々が公開されている。ほかにも皇后が千人の垢を流したと伝わる「唐風呂」や、「十一面観音」さん、滝口入道との悲恋のあげく当寺にこもって経をあげたとされる「横笛堂」などで有名なお寺。庭園も椿が咲いているということで句材は限りなくあるのであるが。。。

観測用標準木

寒明や上枝ゆるまぬ標準木

かんあけやほつえゆるまぬひょうじゅんぼく

奈良地方気象台というのは聖武天皇さんの御陵の隣にある。

一条通から緩い坂を登っていった小高い丘の上にあるので見晴らしもよく、盆地のどの山までが確認できるかでその日の見通し度合いを測っていたりもするらしい。
最初、東京の桜の標準木というのは靖国神社にあるのは知っていたので、ここ奈良でも気象台と言うからにはどこかに観測用の標準木があるにちがいないと楽しみにしていたら、なんと門から建物へ向かう急坂のサイドに植えてある樹木がすべて標準木、副標準木だという。しかも標準木の種類というのは桜(染井吉野)だけかと思っていたら,他にもイロハモミジ、ヤマツツジなどなどいろいろあって新鮮な発見だった。

昨日の掲句のコメントに書いた百葉箱の他にも、いろいろ認識をあらたにする話がいっぱい聞けて興味がつきない見学であった。果たしてこのようなハイテク機器を駆使するようなところで句材などがあるのだろうかと不安に思っていたが、先輩諸兄姉はさすがに上手に拾い集めておられて己の未熟さをまたまた自覚するのであった。

アフターミィーティング

立春の風向計の目まぐりし
寒明や光乱るる風向計

第一火曜日はまほろば句会の日。

今回は奈良地方気象台への吟行だった。
この2月というのは、春とはいえ春を実感するようなものが少ない上、季語も少なくてそのこと自体が季材に乏しいことを示している。まして今日は昼頃に冷たい雨または雪だという予報だったので、果たして短い時間内に規定の作句ができるかどうか不安でしかないスタートだった。
どうにかこうにか義務は果たしたものの、やはり出来はもうひとつ。
考えてみればこういう日は当然ある、というよりほとんどがそうなわけで、さっさと頭を切り換えて句会後の茶話会を楽しむことにした。

茶話会が終わったら夕方5時。外はまだ十分明るい。日脚は相当伸びているのだとあらためて思うのだった。