生気ある白

白無垢の芙蓉の底のうすみどり
白芙蓉の白にまされる白はなし
うつろへど生気帯ぶまま夕芙蓉
白きこと芙蓉の白に極まれる
酔芙蓉古刹の院の奥にかな
芙蓉花古刹の庭の半ば占め
多武峰真東なる芙蓉かな
跼まる芙蓉のよべのゑひしこと
ゆくりなく君に遇うたり白芙蓉
おのづから君らふたけて白芙蓉
健次忌の日輪さやに花芙蓉
風さやに寺門吹きぬけ白芙蓉
白芙蓉撫でて寺門の風さやに

類句にあるかもしれない。

さは然りながら、この吸い込まれるように純度100%の生気を帯びてなお純粋な白。また、それに顔を近づけて、底に薄緑色を見つけたときの感動は、何としても表現しないではおけない衝動に駆られるのである。

この時期に飛鳥を訪ねるのであれば、橘寺の芙蓉は絶対見逃せない。白芙蓉、紅芙蓉、酔芙蓉。どれもが手入れゆきとどき気持ちよく拝見することができる。何度来ても、拝観料350円惜しんではもったいない。

ご批判承知で詠んでみた。

補)写真は、iPhoneのホワイトバランスが崩れていて、緑がかっている。やっぱり、ちゃんとしたカメラで撮ってあげないと失礼だな。

補)やはり類句であった。

白芙蓉の白きより白きは無し 虚子

完敗です。

右肩上がり

右肩の少し怒れる案山子かな

今日は飛鳥吟行。

飛鳥寺付近、祝戸付近(石舞台あたり)、稲渕付近、橘寺、天武・持統合葬陵。
おかげで句材はいたるところに困るほど。
最近では町おこしと称して見せ物案山子が多いなかで、雷丘を過ぎたあたりで本物の案山子二体を発見。
頬被りして古浴衣着せられ、昔ながらのスタイルである。
ちょっと滑稽だったのは、右肩上がりならぬ、右肩怒り。両裄は一本の竹だから、当然左肩下がりとなる。
伝統的スタイルの案山子が廃れてゆくなか、「右肩上がり」というのが妙におかしくて独り悦に入ったのであるが。

句座ざわめく

身じろぎて烏発つなく大夕立

大夕立だった。

むせ返るようななかの吟行を終え、句会場に落ち着いた頃に凄まじいまでの風と雨が襲ってきた。スマホの雨雲レーダーでは、はっきりと捕らえられた雲が映る。明日香、吉野のあたりを通過中で、警報も出たみたいである。
東、南にある山がみるみるかき消されてゆく。
雨は会場の公民館の太い樋をあふれ、ざあざあと落ちてくる。低く飛んできた烏が物置に止まったものの、雨にさんざん叩かれるせいか、さかんに首を上下させては足踏みもしている。それでも飛び立たないで留まっているのは、飛ぶときではないと思っているのだろうか。この大夕立を奇貨として、席題と受け取って見事に読み切った句友もいてさすがだとうなった。

1時間くらいは降ったであろうか。句会が終了と同時にぴたっと雨が上がった。

過ぎたるは

煙草臭沁みて冷房よく効いて

キトラ古墳周辺の吟行。

先日、朱雀の壁画特別展に行ったばかりで、記念館で作る自信もなく、暑くても歩かなくては季材が得られないと思い、汗まみれになりながら散策してみた。おかげで句材となりそうなものはいっぱい見つかったが、なかなかうまくまとまらない。
もうどうでもなれと、駅前の食堂に入ったものの、数十年の年季がはいっているだけあって、入った途端煙草臭が鼻をつく典型的な地方のお店。おまけに冷房が効き過ぎるほど効く。
句友の同級生の店だから、アイスコーヒーのおまけはありがたかったが。

神宮の森のなかに

水匂ふ神代の池の花擬宝珠

橿原神宮の広い神域に深田池という溜池がある。

古代、万葉の時代からある灌漑用の池だということだが、今は親水公園として整備されている。大きな池の東側には睡蓮がせめぎ合うように群生しており、大きな亀がさかんに葉を揺する。
いっぽう、池の南側は鷺の一大コロニーで、子育て中の青鷺、白鷺、五位鷺の幼鳥たちの声が遠くからでもかしましい。うっかり侵入してしまった川鵜が大きな鷺に追い払われるシーンも見られた。
さすがに、糞や羽毛が目立ち、独特の臭いがやや鼻につくようだった。

仙人のご加護なく

まろやかに畝傍そばだつ朝ぐもり

台風が来るとあって蒸し暑い。

今度の台風は小型で足が速いので、来るときは一気に来るというが、今朝の空にはまだそんな気配は感じられなくてうっすらと曇っている様子である。普通こういう日は、朝のうちの曇りが晴れたらかんかん照りの暑い日になることが多いのだが、ちょっとは違うようだ。近くで見る畝傍山は心なしか輪郭がおぼろで、いつもの端正な佇まいとは異なった表情を見せている。

今日は久米寺、橿原神宮方面の吟行で、夕方来るという台風が気になり一同落ち着かない。
今日の主目的の久米寺は、あいにくあじさい祭が終わったばかりで、園は閉ざされていて多くの句友が残念がる。
次の神宮の深田池でようやく、睡蓮や、鷺のハーレム、など多くの句材が見つかって何とか投句はできたが、必ずしも意の通りではなく心は天気同様晴れない。

やっぱり長谷寺

玉のまま錆びて芍薬崩れざる
万緑の見渡すかぎり寺領とや

久しぶりに長谷寺吟行。

牡丹の時期の喧噪からは様変わりの静けさに包まれて、ゆっくり境内を散策することができた。
勿論、「花の御寺」といわれる長谷寺のこと、花の端境期とはいえ句材はいくらでもある。
芍薬も時季外れだが、名残の風情はそれはそれでまた詠み応えがあるというもの。
咲ききって、大きな種を見せるものが多いなか、開くことなく蕾のまま枯れてゆく姿、ある意味、冬薔薇に似通うような趣に心引かれてしばらく佇んでみて得たのが掲句である。

あの大舞台にたって「万緑」に挑戦するのも今日の目標で、いくつか詠んでみたもののひとつが寺領の句。
今日はいくつも詠むことができ、どれを投句するかと悩むほど、贅沢な一日であった。長谷寺、さまさまである。