木陰を選りて

軽暖のバギーむづかる嬰児かな優良児

簡易型のバギーからはみだした幼児の素足に何か塗っている。

親の顔や腕、足にも塗っていたから、おそらく日焼け止めクリームだろう。
奈良駅が近くなって、外国人親子連れが町歩きの仕度を始めたようだ。
紫外線が意外に強いこのごろ、とくに西欧人にとっては大敵なんだろう。
混み合う車内で、体全体がっちりシートベルトに固められては幼児もさぞ暑いとみえて、さきほどから機嫌が悪い。
駅を出ればいくらか涼しいかもしれないが、登大路をまっすぐ行く道はすでに気温が20度を超えている。鹿さんをみたら機嫌がなおるかな。

今日から夏。やはり季節の実の歩みのほうが早い。

袋角はおとなしい?

袋角鹿の子模様のうっすらと

奈良の鹿は相変わらず観光客に大人気。

ちょうどこの時期袋角が出始めて二段目までを形成中。なかには二段目の先が分岐し始めて三叉になりそうなのもあって、最低でも4才と分かる。聞くところによると、鹿の角の分岐は四叉までだそうで、そうなると5才以上の証明となるらしい。
なかには、まだ幼い袋角で、体側をみるとどことなく鹿の子模様が残っていそうなものもいた。
袋角の時期の鹿は、秋の繁殖期に比べると心なしかおとなしいような気がする。体をぽんぽんとたたいてみても何の反応もない。煎餅を持つひとを追う仕草もどこかのんびりとしているようだった。
ただ、袋角を触わられるのはさすがに嫌がるみたいで、するりと逃げられてしまった。

室生の燕

大曲がりせる瀬を返し初燕

今年初めて燕を見た。

それも、山深い室生でである。
室生寺入り口にある大野寺へ、巨木の糸桜目当ての吟行である。ここも開花にはまだ数日かかりそうでがっかりだったが、それなりに遅い春の句材はあまたあった。
上流の室生寺から流れ来る宇陀川の水量は多く、その瀬の上を燕がかすめ飛んでいる。おりしも、小さな蜉蝣のような虫が飛んでいて、これらを捕食しているのではなかったか。
淵となっているところをのぞくと鯉がゆっくりと深みへ沈んでゆく。

悠然と野鯉沈める春の淵

まだ帰らない小鴨が瀬に身を委ねては下ってゆき、折り返し戻ってはまた下へ流れてゆく。採餌するにも省エネを徹底しているようだ。

あるかなきかの

強東風の攫ふ拝観しをりかな

花か香か。

折しも、菅原の里では梅が満開で、菅原神社では盆梅展が開かれているが、とくとく思うに梅の魅力はやはりその香りにあるのだろう。兼好さんに反論する訳ではないが、やはり梅は桜と違う。桜に比べ花期は長く、その最後までよく見ることができるが、そのことがかえって花の魅力というものを損じているようにも思える。かわりに、香りには花の盛衰にかかわらないものがあって、目をつむってでも、長きに楽しめるのがいい。
屋外に置かれた鉢からはそこはかとなく香りが立ちのぼるし、それがまた適度な風があるとそれぞれに鼻を近づけては確かめてみる楽しみがあり、それがどの鉢のものとも分からないことも多いのが奥ゆかしくていい。一方室内はと言うと、一歩足を入れてみるだけでそれぞれの香を凝縮した濃密な空気に全身が包まれてきて、これはこれで豪華な雰囲気を醸成していた。
個人的には、あるかなきかの香を楽しむ屋外のほうが好ましいと感じたが、さりながらこの日は大宰府にもとどけとばかり風に勢いがあるので、ゆっくり香りを堪能するどころか、首をすくめるほどの寒さには閉口した。
喜光寺の弁天池に浮遊するものが、あっちにもこっちにも振り回され漂流しているのが印象的な日であった。

蓮の寺

春塵や千年仏の箔のなほ

菅原の里の喜光寺は養老年間に行基が創建したと伝わる寺である。

菅原天満宮にも近く、菅原一族の氏寺として作られたという説もあり、別名を「菅原寺」と呼ばれる。
ここの見どころは、「試みの大仏殿」といわれる重文の本堂で、東大寺建立に先だって建築された、いわばプロトタイプとしての役割があったともされている。今の本堂は、室町年間に焼失したが縮小されて再建されたとのことだが、それでも迫力は十分である。
特徴の一つとして、上部に連子窓が設けられ、堂内に光が溢れるようになっている。丈六の阿弥陀如来と脇侍の両菩薩の頭上には天女が舞い、さながら堂内全体が極楽浄土のように明るい。
これまた重文の阿弥陀如来は平安時代の作で、開扉されたまま公開されているが、千年経った今でも驚くくらい金箔が剝落せずに残っている部分もあって保存状態はいい。

法相宗ということからも分かるように、ここは現在薬師寺の別格本山ともなっており、最近では、菅原の里の喜光寺から、西の京・唐招提寺、薬師寺を結ぶコースをロータスロードと名づけ、蓮の寺として観光アピールしている。
百鉢を超える鉢があったが、今の時期芽吹きはまだのようであった。

なお、菅原というのは土師氏の一族であるが、その土師氏というのは、垂仁天皇のとき野見宿祢(天皇の前の相撲で当麻蹶速に勝ち、相撲の祖とされる)がそれまでの殉死を廃し、代わりに埴輪とするよう進言し容れられたことから賜った姓で、いまの菅原のあたりを本願地としていたようである。言われてみれば、菅原の里のすぐ南に垂仁天皇とされる御陵があり、両者の関係は相当密接なものがあったと思われる。

菅原の里

白梅の散るをいそがぬ古色かな
盆梅のいずれの鉢の香なるらん
屹然と野梅の盆の孤高かな
天神に落ちずてふ梅ありにけり

まほろば句会は冬に戻ったような天気。

途中、霙交じりの春時雨にあったり、風は料峭とも言える強い西風。
管公出身と伝わる里の吟行である。菅原神社の盆梅展が目当てだが、隣接する喜光寺の丈六仏にもご挨拶。
菅原神社の玉垣には「落ちない梅」という案内があり、実が落ちないという意味らしいが、なにやら受験生にご利益がありそうである。受験シーズンも終盤とあって、すずなりの絵馬の願意は合格祈念だが、合格御礼の札はこれから徐々に増えていくのだろう。

尊い行為

ご神水賜り登拝の明けの春
三輪山に登拝の鈴の響き冴ゆ

やはり正月だろうか、多くの人が三輪山を上ってゆく。

ここはご神水の湧く狭井神社で、御朱印所で襷、鈴を受け取り登拝するが、なかには白装束に身を固めた篤い信者もみられる。神社横の登拝口からいきなりの急斜面で、鈴の音がみるみる上の方へは遠ざかるいっぽうで、下山の鈴の音がぐんぐん近づいてくる。
登拝経験のある人に聞けば、途中そうとうの急登もあるようだが、登拝客は取り立ててそれを苦にもしてない風であるのは、参拝という尊い行為にあってはそれすらもありがたいことだとされているのかもしれない。
下山者の靴は、昨日の雨で登拝の道はぬかるみもあるようで泥まみれであるが、顔はうらはらに晴れ晴れとしているようである。