脱力状態

踏青や両岸まろむ竜田川

平群谷が生き生きとしてきた。

山は笑い、野は青み、水は煌めきを増す。
谷を流れる竜田川の川幅は10メートル足らず。その両岸が萌えだして緑の絨毯を掛けたようだ。
名こそ竜田川だが、実態は平群川。竜田川というのはもともと大和川の奈良と難波を結ぶあたりのことをさす。平城京と難波京を結ぶ難所ながら往来多いところゆえ歌枕となったわけだ。
朝こそ冷えたが昼間は暖か。今日あたり独り吟行で山辺の道あたり行きたいところだが、歯科の予約があって断念。
生まれて初めて歯石というものを取ってもらうためだが、70年貯め込んだやつはしつこくてこれから何回通わなければいけないのか、見当もつかない。歯には自信があったのだが、虫歯はぼろぼろ、歯石はびっしり、歯周病始まってるよと言われてショックから抜け出せず脱力状態である。

解禁ムード

春愁のただなかにゐる会議室

密閉、密集、密接の三条件。

この論理積がもっとも危険といわれて、電車に乗るのも怖々。
すでに通勤の必要がなくなって、用事もなければ電車に乗ることもないが、どうしても出かけなくてはならないことはある。
会議室ではマスクをして隣と距離をおきながら、静かに話したりとか最新の注意を払うが、それでも常にウィルスの脅威を感じている。
学校が新学期より再開されるというので一気に解禁ムードが出てきたが、これを戒める研究者もいて来月の句会を再開すべきかどうか悩むところである。
個人的には、この「西浦・北大教授「助けてほしい」解禁ムードを危惧」というニュース記事を重く受け止めたい。

こと寄せる

文豪のこころ寄せたる菫かな
コンクリート隙に菫のど根性

歩道の隅に菫が咲いていた。

ど根性大根ならぬど根性菫である。
漱石に名高い、

菫程な小さき人に生まれたし

とは、小さくとも野辺に力強く咲く健気なすみれへの憧憬を詠んだものとされる。
ただ、この解釈にはどこかかっこつけすぎのような気がしないでもない。小説家というものはおりおり嘘をつくものであるし、わざと自分を小さな弱い人間に見せかけようとする作意を感じるからだ。
すみれについては、宝塚歌劇団の歌のイメージもあってロマンティックに扱われるものであるが、漱石もまたすみれの可憐さにことよせて自分を飾っているような気がしないでもない。

乾いた風景

芽柳や女スマホに余念なし

車中から一本の見事な柳が見えた。

芽吹いて数日というところか。それでもいかにも柔らかそうな枝が見事に垂れていて、風もないのか、田園風景のなかの一点として絵になっていた。車中で気づく人もなさそうで、ほとんど全員といって言いほどスマホ画面に目を落としている。
外は柳青んでいかにも風景が柔らかいのに比べ、車内には乾ききった風景が広がっている。

突撃

疫病の退散唱ふお中日

「内献」という言葉を初めて知った。

檀家の参列もなく、お寺のうちうちで行う法会のことだと。
菩提寺から葉書でそのような通知があって、日常生活のあらゆる面で何から何まで新コロナウィルスに振り回されている。
今年はどこのお寺でも願文に「新コロナウィルス退散」を唱えたに違いない。

このウィルス騒ぎ、感染経路が不明なものがあるようで、一二週間と言われた山はとうに過ぎて、いずれ爆発的な感染にならないか気がかりである。
というのも、一定の条件を満たしたものしか検査してないので、実際の感染者数はこんなものではないはずなのが一層不安感をかきたてる。
街への外出を避けていたのだが、明日はどうしても都会に出ざるを得ない用事があって、オーバーな話だが決死の覚悟をもって突撃するしかない。

あれから八年

春泥に砂山盛りて地鎮祭

深夜に突然の突風の音で目が覚めた。

今日の日中も風が強かったが、そのわりには気温が高くて過ごしやすい日となり地鎮祭にも最高の日和。
こんなときだが、工事の安全、建築の無事完工を祈念する神事をやめるわけにはいかなかったのだろう。
粘土質の更地だからあちこちに水溜まりができていて、それらを砂で均して小さな結界が張られている。
わが家を建てたときも同じようにぬかるみの上で畏まっていた思い出ももう八年も前のことになる。

身を包む

春雨や傘を開く児手ぶらの子

気配を感じて窓の外を見た。

沓脱石が濡れている。雨だ。
いつの間に降っていたのか。音さえ聞こえない静かな雨だ。
外に出ればもう止んだあとで、生温い空気だけが漂っている。
いかにも春の雨らしく控え目で身を包むような心地に酔いそうな宵である。