日溜まりは南面が好きいぬふぐり
下萌えが星に輝いている。
おおいぬのふぐりである。
鮮やかな碧に混じってたんぽぽの黄とのコントラストがなお鮮やかである。
ひさしぶりの陽気に小さくて可愛い春の息吹を目の当たりにすると、つい足を停めて手にとってみたくなる。
昨日の初音といい、今日のいぬふぐりといい、心うきうきわくわくの季節である。
めざせ5000句。1年365句として15年。。。
竹騒に耳研ぎ澄ます初音かな
竹騒に調子半ばの初音かな
犬も歩けば棒に当たる。
冷たい風をついて外を歩いたがその甲斐は十分にあった。
畑で抜いた葱や大根などをぶら下げながら帰る道々、信貴山から流れ出す川べりに沿って竹林がもはや手をつけられないほど茂っているのが続くところに出る。
風でざわざわ騒ぐ真竹の擦れ合う音に混じって、本調子半ばという具合の鶯の鳴き声がはっきり聞こえる。当地より数度気温が低いと言われる榛原でさえ半月以上前には初音の報があったので、当地のものは相当練度が上がってきていたとも言えようか。
これより半年以上家の近くの八幡さんの杜から、信貴川沿いの竹林から、朝に夕に佳い声が慰めてくれそうである。
伊予にまた地震の報ある二月かな
心配される中央構造線近辺に震度四の地震があった。
震源地は能登よりなお狭い佐多岬の根っこ部分。先端には伊方原発がある。
ここが被害を受けると能登以上に行き場がないだけに、手の施しようがないほど悲惨な結果になりはしないかと怖れるのである。
ここには熊本・大分地震の延長線上となる構造線が伸びていて、四国の背骨を貫き紀ノ川、吉野川を経て伊勢、渥美、浜松へとつづく。
四国はしばらく大きな地震がない空白地帯で、南海トラフ地震に先立って地震発生が心配されるエリアである。
先日も南宇和で地震があったばかりである。
背筋の寒さがいっそう募る二月である。
梅ヶ枝の風にふるへて散華かな
通り抜ける風に枝が震えている。
梅だから吹雪というほどではないが、先に咲き始めた梅がどんどん散ってゆく。
遅れて咲いた枝のものは風にも十分耐えられていて、梅終焉の美をしばらく楽しませてくれる。
櫻と比べて圧倒的に花期が長く、ずっと楽しめるのでやはり梅は初春の代表だ。
わが白梅はこのように長くもってくれてるが、ずっと遅れて開いた紅枝垂れはさきに終わりそう。
ひと吹きの花菜に活をもらひけり
ぽつぽつと菜の花の黄色が目立ちはじめた。
あちこちで薹立ちが始まっているようだ。薹立ちは種を成す作業の始まり。次の命を生み出す一歩である。
背を丸めて歩くのはやめ、足もとではなく遠くを眺める季節の到来である。
それほど暖かくなくても、春は実感のものとしてこの身を漬しはじめた。
恋猫の毎度顔変へやつてくる
不思議だが毎年違う顔の猫が渡ってくる。
12メートルの広い道路を日に何度も越えては来るのだから、文字通り命がけの恋である。
二、三年前には何を焦ったか車の前を横切って落命したのがいる。目撃したご近所の奥さんに頼まれて様子を見に行ったのだが、駐車場にまでたどり着いたはいいがそのまま絶命したようで、街の係に頼んで後始末をお願いした。
その子は毎日のようにやってくるおっとりとしたキジ虎で、肉付きもよく誰かに飼われていたと思われたが、首輪もなく飼い主に知らせることができなかったのが悔やまれるところである。
餌をくれる飼い主がいたとしても外に放たれている以上野良同様で、昔から野良は宿命上長生きはできないようになっている。
代わって今年はさば白がやってきた。
避妊したみぃーちゃんにご執心ので、雨の中でも追っ払っても追っ払ってもやってくる。道路の反対側にむけて追わないように気をつけているのだが、振り回される日々が始まった。
発芽率百とは言はぬ種袋
そろそろいろいろな種を用意する季節。
夏が来るのがぐんと早まったので、気の早い人はもう苗作りにかかっている。
家庭菜園などで毎年苗から作っていると、一回買うと一年で消化しきれないほど量が多いので、殘りを再利用することになるので二年目からはそんなに多くを買う必要はない。
問題はその殘りの種を使った発芽率である。たいがいは有効期限(ほとんど一年)が記されていてそれを過ぎると発芽の保証はない。
種袋には容量と有効期限、発芽率が記入されているが、この発芽率だって百パーセントと書いてあるものはまずない。安全サイドに立ってだいたいが八十パーセントと低めに設定されている。
腕前によってこれが百近く出す人と、下手するとゼロ、つまり発芽失敗する人に分かれる。
だれがやっても種類によって発芽の難しいものもあれば易しいものもある。
一喜一憂しながら種をまくのもまた楽しいものである。