対馬海流に乗って

対馬逐ひ隠岐ををひたる飛魚(あご)の皿

米子沖にはもう到達したのだろうか。

飛び魚は初夏から夏にかけて南から日本海流、対馬海流に沿って北上するらしいので、米子の友人・H君が今日食べたというアゴのカツカレーは旬のものだったにちがいない。飛び魚といえば、クサヤなど干物のイメージが強いが、生をすりつぶしてカツカレーにしたものとは一体どんな味がするのだろうか。
昔、塩焼きを食ったという記憶がおぼろにある。旬で新鮮なものならば刺身でもいけるのではないか。掲句はそんな期待から、対馬海流にのって日本海に顔を出した「飛魚の皿」をイメージしたもの。

虫にも負けず

胡瓜苗植えてよりのち憂ひあり

ゴールデンウィーク中はホームセンターの野菜苗、花苗コーナーが大賑わい。

胡瓜やシシトウガラシ、今年初めて満願寺唐辛子を買ってきて、さっそく庭やプランターに植えた。
瓜系は苗のとき瓜葉虫にやられやすいので、場合によっては虫除けの覆いが必要になるので毎日観察をおこたってはいけない。
収穫は楽しいものだが、それまでは虫の他に病気や天気にも気を配り、草取り、蔓の引結、水やり等々やるべきことは多い。素人菜園だから失敗してもどうということはないが、やるからには何とかちゃんと実がなるようにはしたいものだ。

竹の里で

小流れにかすかに揺るる白睡蓮

今月の吟行は6月にも行ったことのある生駒市の高山竹林園。

丘の斜面にもうけられた園には流れがしつらえられており、ところどころ流れをとめて池となっている。池には蜷がびっしり這っていたりして、季節には蛍が飛び交うのではないかとも思われる。
狭い池にはポツポツと睡蓮も咲いていて、開ききった花がその下を流れる水によってかすかに揺れていたりする。

数奇な

立退の決まりし垣の灸花

なんと可愛い花なんだろう。

ただ、その名を聞くだに目をそむけたくなるのが気の毒である。
「へくそかづら」。
枝や葉をさわると臭いからといって名付けられたそうだが、そういう性格だろうか、荒れ地に生いるイメージがあって俳徒からは数奇な目で見られる季題である。

平群町へ抜ける県道をよく使うのだが、大型は通行禁止の道路で両側には古い住宅地が迫っていて大変狭い。そのわりに交通量が多いので、随分長い時間をかけて拡幅される計画があるようで、ところどころ廃屋のまま、あるいは更地になったままで立ち退きを待つばかりの風情である。
そんな一区画の垣に白い花に紅い紅をさしたような灸花が垂れていたのであった。

慈雨のち虹

喜雨ならん農の生計にあらねども

昨日のような雨を「喜雨」というのだろう。

晩秋から春先にかけて盆地を移動する時雨を遠目にもよく見かけるのだが、夏の雨雲というのは低くて空全体が暗くなってくるので今どこが降っているのかは近くになってからでないと分からないことが多い。昨日の場合は、坂の先の駅の向こう側が烟っているので「こっち来い、こっち来い」と念じていると、やがて白い幕のようなものが段々近づいてきてそれがこちらの方へ向かってくるのだった。
1時間くらいは降ってくれた夕立であった。

連日の日照りに焼けそうな田や畠にとってひさしぶりの慈雨となったのは言うまでもないが、農業をやらない我らまでもが待ち焦がれていた雨、それも驟雨と言っていいくらいしっかり降ってくれたのである。
一部には降りすぎるくらいであった雨ではあるが、盆地を東から西へ向けて駆け抜けるように雨をもたらした雨雲も夕方にはあがり、夕方のニュースでは若草山に虹が立っている模様が映し出されていた。

一足早い秋

山村の岩を堰とすプールかな
寒村の水場に遊ぶ子のなくて

吉野川源流・高見川のあたりに吟行した。

このあたりは東吉野村といって、かなり前から俳人・俳徒にとって聖地ともされる村である。村内のかしこに著名な俳人の句碑が建ち、多くの俳人が訪れる。そのなかでも、「天好園」という山の宿を知らぬものはもぐりだと言われるくらい有名な館で、ここで句会もよく開かれている。
属する結社でも昨年5月余花の頃にここで吟行句会が開かれ、ことしは万緑、というより晩夏の時期に訪れることになった。

山の奥で、清流は流れているし、蝉や虫の声、いろいろな草木もあるので四季折々に句材には尽きないものがありそうだ。

青芒活けて迎へる山の宿
青芒深山の客を迎へけり

かなり奥になるので大和盆地に比べ随分涼しい。昼頃には天気もずんずんよくなって青空が広がり流れる雲も高い。ここには一足早く秋がきているようだ。

摘果のタイミング

青柿の多く落つるも枝になほ

柿というのは花もそうだが実もそうである。

何がって、よく落ちるのである。
今年はよく花がついたなあと思ってると、花が小さな実をつけながらどんどん落ちてゆく。また、それがなんとか残って実がどんどん大きくなっていっても、そのはしからどんどん落ちるのである。
だから、歳時記などをみても「柿の花=青柿=落ちる」というイメージの例句が多い。
掲句もそうで、もうこれ以上落ちないかと思っていても、木の下を見るといつの間にかまた落ちている。だから、柿は摘果すべき果物だと分かっていてもどのタイミングで摘果していいやら素人にはよく分からないものなのだ。

かくして、摘果しないでいると思ったより実が成ったりして、その分小さな実ばかりしか収穫できないというような事態を招いてしまうのである。また、それが翌年は花が咲かない、結果しないというような柿独特の隔年結果に陥りやすい。

今日は吟行句会で東吉野へ。予約投稿である。