涙を拭いて

街道の脇は玉葱吊るばかり

新玉葱が甘い。

北海道、愛知、佐賀、兵庫(淡路島)だけで全体の8割ほどを占めるらしいが、和歌山の紀ノ川沿いもまた玉葱の産地であった。
「あった」というのは、その昔紀ノ川に沿う国道のバスから、玉葱小屋の軒という軒に玉葱が吊されているのが見えてそれがたいそう壮観であったからだ。今では国道などの便利なあたりは開発化のあおりで昔ほどの景観は失われたろうが、それでもきっと玉葱の生産は続けられているに違いない。

玉葱は血液をさらさらにし、それが高血圧、糖尿病、動脈硬化、脳血栓、脳梗塞などの予防につながる効用があるという。また、疲労回復、精神安定などにもいいらしい。
生で食うのが一番の季節。サラダにいっぱい混ぜてバリバリと食べたい。
と言っても、自分は皮がむけないのだが。

植田残照

いくばくの植田を恃み墓いくつ

奈良盆地は今が田植えの真っ最中。

あんまり大きな耕運機は見ず、小さな機械にまたがって三輪車のようなハンドルでことこと植えている光景をいくつか見た。なかには数人で手植えしている風景もあって、どこか懐かしさを誘う。

一段高いところに墓地があって植えたばかりの田に影を落としていた。

立って眠る

睡蓮の閉じて立ちたる眠りかな

睡蓮の花が閉じる時間は意外に早い。

2時をまわっていても3時にはまだ届かず陽は十分に高いのに、薄黄色の花はもう半ば閉じかけていて光に透けている。
どうやらどの花も咲くときは上を向いているし、閉じても真上を向くらしい。観察していてそんな性向に気づいた。

蓮の蕾がずいぶん大きくなってきた。
睡蓮から蓮へ。
エルニーニョで雨の期間が長引くかもという予報だが、季節は盛夏に向かってゆく。

憐憫の目

ほとりせばそのかみの香に栗の花

お恥ずかしい話だが、今日車に乗ろうとして眼鏡がないことに気づいた。

最近は夜に運転するときしか眼鏡を使用しないので、いつもはケースごと車に放り込んである。
それが、午後から花菖蒲を見に行こうとなって、午前中いっぱい文庫本の細かい字を読んでいたせいか、目がしょぼつくので眼鏡ケースを開けてみたら中が空っぽなのだ。
「や!これは」。
最近使ったのは何時かはとっさに思い出せた。
先週土曜日「古代出雲とヤマト王権」展をみに行った「近つ飛鳥博物館」に忘れてきたに違いない。展示ケースのなかの説明文を読むために眼鏡を使ったのは間違いないからだ。で、電話で尋ねてみると落とし物の届け出にはないという。さあ、困ってしまった。
博物館から帰って車を降りるとき、バッグから眼鏡ケースを取り出していつものように車のダッシュボードに置いたのは間違いないから、どう考えても博物館から自宅に帰り着くまでに落としたはずだ。
自分の目で確かめてそれでないなら諦めもつくだろうと、花菖蒲の観賞もそこそこに博物館に行ってみることにした。

雌花の小さな突起はもうすでに固くて痛い。これが毬になるのかな。
雌花の小さな突起はもうすでに固くて痛い。これが毬になるのかな。

写真の栗の花は博物館の前で当日撮ったものだから、まずは撮影場所を探してみるが、ここにはない。
先日館内を巡ったコースに沿って、トイレも含めて探してみたがやっぱりない。

肩を落として帰ろうとしたとき、「そうだ、あの日は梅雨寒の日だからジャケットを羽織っていたはず」「もしかしたら」と、家人に電話したら、果たして、ポケットにあるというではないか。
「何という不覚」「焦って大阪まで行くことはなかった」「何とそそっかしいことよ」。

自分でも馬鹿さ加減にあきれてしまうが、いいように考えれば数日前のことをちゃんと「思い出すことができた」のである。
家人からは憐れみの目を向けられたが、今のところ記憶の方は大丈夫なんだと妙に安心するのであった。

ファイティングポーズ

子蟷螂太々しさの片鱗も
子蟷螂葉かげに退路もとめけり
逐われては逃げるにしかず子蟷螂
蟷螂の子も欲しげなる迷彩服
蟷螂の子のもの陰に安んずる
糸ほどの斧とて武器に子蟷螂
糸細工ごたる五体も子蟷螂
攻防の両の構へも子蟷螂
ファイティングポーズしてみせ子蟷螂
正対の構へ隙なく子蟷螂
蟷螂の子また群るるをよしとせず

カマキリは生まれたらすぐ一目散に散って物陰に姿を消すそうである。

残念ながら卵から孵ったところは見たことはないが、どうやら蜘蛛の子とちがって生まれるのにもいくらか時間差がありそうだし、生まれても当たり一面をうろついている蜘蛛の子とは違うようである。だから一斉に逃げ散るさまを言うのには、「かまきりの子を散らすように」と言ったほうがより的確で正しい表現なのかもしれない。

葉隠れの蟷螂の子

もう6月に入ったので生まれてからは幾分時間がたっていると思われる。だから、先日発見したのは当然ながら親から自立して独りの力で生きてきた子なのである。見つかってしまった時は「しまった」とでも言うように紫陽花の葉陰に逃げ込んで様子をうかがっているかのようだ。なおもレンズを向けてみると、身を固くするようにしてファイティングポーズをとるのであった。
あの糸のような頼りない鎌が、本当に役に立つのかどうか実際のところは分からないが、立派に生き延びているところをみればそれなりに役割を果たしているのだろう。

順調

掃いてまた南天の花散りしまく
南天の疲れを知らず花散らす

毎日のように南天の花が散りつもる。

ごく小さなかわいい花びらだし、汚れてでもない限り掃かずにそのまま散っているさまを楽しめばいいけれども、玄関先でもあるので毎朝掃くのが日課となる。
いっぽうの本体の南天はと見れば、花弁は散ったものの今年は多くの黄色い蕊が残っていたりする。これが実を結びやがて晩秋には赤く熟れてくると思われ、今年は南天の当たり年になるかもしれない。

先ほどからまた雨が降ってきた。当季の梅雨は今のところ降ったり止んだりの陰性模様。いかにも順調な梅雨らしくていいが、そうなると遅めに植えた胡瓜苗の生育が気になってくる。

形の妙

がくばなの粒の星屑散らしたる
がくばなの粒寄りあうて小銀河

紫陽花の別名をテマリバナとも言われるように、いわゆる丸い紫陽花は花が退化して花序ばかりになったものを言う。

紫陽花曼荼羅

もとは、地味で目立たない花の粒々が集まっていて、周りを額のように花序が取り囲むので額紫陽花と呼ばれているものだ。日本各地の山などには自然に生えているものだけでもかなりの種類があるが、シーボルトがこの一つを持ち帰り西欧で大変人気になったと聞く。
今では里帰りした花などつぎつぎと新種が生まれ、大変豪華な鉢が店先に並んでいる。

形をみれば大きな手まりのような豪華な紫陽花に軍配があがるだろうが、どちらが好きかと聞かれたらやはり形の変化に妙のある額紫陽花と答えたい。小さな星が集まり、それを花序の惑星が囲んでいるようにも見えてちょっとした小宇宙、小銀河を思わせる。