藪の忍者

呼び止めてやがて追ひ越す笹子かな

笹鳴きがするので思わず振り向いた。

通り過ぎたばかりの小籔にいるらしい。かすかに葉が揺れて、その部分が次々と移っている。谷渡りよろしく例によって移動中のようだ。
やがて笹鳴きも途絶えたので歩き始めたら、今度はずっと前方から笹鳴きが聞こえてくる。
ちょっとしたすきの油断をついて先回りされたようだ。
藪の達人、忍者のようだ。

着火

春雨や燐寸擦ること二度三度

燐寸箱などというものは、今どきほとんど家庭に置いてないだろう。

目にすることがあるのは、寺や墓地などに備えてある大きな燐寸箱である。
蝋燭や線香などを灯すために用意してくれてあるのだが、野外などにあるものはときに湿っていてなかなか発火しないことがある。軸の燐がふにゃふにゃで使い物にならなくて、何本も軸を変えてようやく点くこともある。少なくとも一回や二回ですぐ着火したという記憶は薄いものがある。箱のやすり面がやられている場合は最悪である。
最近では、着火用ライターに替わられているケースが多く、これはこれで便利なものだが、難点は風に弱いことである。燐寸ならば、発火した瞬間の炎の勢いを借りて蝋燭などに移すこともたやすく心強い。
彼岸にはまだ日があるが、お参りするときは念のための予備としてライターは必携であろうか。

石光寺の花々

三椏の芽の銀にもたげ上ぐ

今日は寒牡丹で知られる石光寺へ吟行。

もう寒牡丹も終わっているのではないかと案じてたら、案に相違して名残の様子を楽しむことができた。寒牡丹は盛りを詠まれることは多いが、今日のような状態をいかにうまく詠めるかも問われた日だった。

咲ききって終の一輪寒牡丹
染寺の奥へ奥へと寒牡丹

が精一杯。「染寺」は「石光寺」の別名で、あたりは昔染料が採取できる土地柄だったこと、當麻寺の曼荼羅を織った中将姫がこの寺の池で糸を洗い、桜の木に掛けたら五色に染まった伝えから名づけられている。

庭園は花の札所の名に恥じず、蝋梅に梅や万作など、いろんな花が咲き、香りを放ち、また一方で芽ぐみ始めた草木で満たされていた。

望外の香に遭ふ庭の春浅し

滑空小考察

毒蛇に注意とありて枯野かな

ドキッとするような色と絵がある注意書きである。

こんな時期だから蛇など出るはずがないのに、思わず身構えてしまった。
園内はずっと向こうまで見通せるほど、草も木も枯れ果てている。今日も探鳥を兼ねての散策だが、おかげで鳥の羽音や枯葉、枯れ木をごそごそ動く音がよく聞こえて鳥はすぐに見つかる。
カメラ派、双眼鏡派それぞれいるが、今は鳥を目当ての人が一年でも一番多いようである。

今日の鳥。
モズ、ジョウビタキ、シロハラ、エナガ、メジロ、四十雀、シメ、ヒヨドリ、烏など。水鳥はいつもと同じ。ただ、大バンの群れが池の畔に上陸していた。かれらの離陸に要する滑空時間(というより足で水面を蹴る距離・時間)は鴨類に比べて相当長いようである。対して、小鴨は滑空することなく垂直に離陸できるのも新発見だ。

お面

節分のにゃんにゃんバスのわいわいと

頭に何やらかぶったり、首になにか掛けていたり。

幼稚園の送迎バスが着いて、手作りの鬼の面などを手に、園児たちが楽しそうに降りてくる。
幼稚園で豆撒きでもあったのだろうか。
家に着いたらお父さんやお母さんにいっぱい報告したいことがあるに違いない。

だけど、最近は家での豆撒きの声はあまり聞かれない。
道路を汚すだの、近所迷惑だの、今どきの児は鬼が好きでないだの。
はては、福豆よりも恵方巻をかじる人の方が多いときた。
世は変わっていく。

ものみな枯れて

枯芝の宗派問はざる墓地半ば
犬ともに枯芝つけて帰りたる
芝枯れて後円墳とすぐ知れる

芝生が枯れきる季節である。

芝生が青々としていると人は中に立ち入るのをためらうが、枯れ芝となるとちょっと違うようである。
なんの躊躇もなく芝生を横切りたちまち近道ができてしまう。そうしてこれが重なると、その部分が裸地となって芝生が惨めな状態と化すのである。

三寒初日

蝋梅の一木で足る甘さかな

探梅の道につんと香りがある。

蝋梅である。それも、日陰がちな場所でやせ細った枝ばかりであるが、香りの強さは変わらないようである。
思わず近寄って枝を顔の前に寄せてみる。なんとも甘い香りだ。年の暮れから始まって間もなく寒が明けるという時期まで随分花期は長い。

肝腎の梅は半分ほどほころんでいるのもあれば、まだ蕾のものも。ただ、蕾といってもいくぶん膨らんできているような気がする。

今日の鳥は、モズ、エナガ、シメ、イカル、ツグミ、鶯、ルリビタキ(ただし、雌)、メジロなど。水鳥は先日に同じ。