新樹光を浴ぶ

滝口の上の青空大いなる

今日は東吉野への吟行。

天気はまたとない5月の天気。
20メートルほどの高さから一本となって滝が落ちてくる。滝壺の上空は空がぬけて雲一つない真っ青な青空が透けて見える。水流は豊かで清らか、河鹿もときどき聞こえてきて吉野川源流は新樹の光に満ちていた。

対馬海流に乗って

対馬逐ひ隠岐ををひたる飛魚(あご)の皿

米子沖にはもう到達したのだろうか。

飛び魚は初夏から夏にかけて南から日本海流、対馬海流に沿って北上するらしいので、米子の友人・H君が今日食べたというアゴのカツカレーは旬のものだったにちがいない。飛び魚といえば、クサヤなど干物のイメージが強いが、生をすりつぶしてカツカレーにしたものとは一体どんな味がするのだろうか。
昔、塩焼きを食ったという記憶がおぼろにある。旬で新鮮なものならば刺身でもいけるのではないか。掲句はそんな期待から、対馬海流にのって日本海に顔を出した「飛魚の皿」をイメージしたもの。

夏近し

馴染みなき土地に住み馴れ春惜む

奈良暮らしが始まって3年と半年。

冬の寒さは厳しいが、そのぶん春を満喫できるものも多く、飛鳥をはじめちょっと足を伸ばせば古代の息吹にふれることもできる。花よ蝶よと浮かれていたら、あたりはもうすっかり夏模様。この春のあれこれを頭に思い出しながら,夏に向けての心準備もする毎日だ。

大和茶処

茶摘唄今は昔の紅襷

今日は八十八夜。

テレビニュースでは大和茶の初摘みの行事模様が流れたが、茜襷のお姉さんたちはいかにも高校生風情のにわか茶乙女さん。カメラの前の手つきもまるでさまにはならない。
手もみ茶の伝統を守ろうとする若手がいる一方で、茶処の高齢化は待ったなしである。

虫にも負けず

胡瓜苗植えてよりのち憂ひあり

ゴールデンウィーク中はホームセンターの野菜苗、花苗コーナーが大賑わい。

胡瓜やシシトウガラシ、今年初めて満願寺唐辛子を買ってきて、さっそく庭やプランターに植えた。
瓜系は苗のとき瓜葉虫にやられやすいので、場合によっては虫除けの覆いが必要になるので毎日観察をおこたってはいけない。
収穫は楽しいものだが、それまでは虫の他に病気や天気にも気を配り、草取り、蔓の引結、水やり等々やるべきことは多い。素人菜園だから失敗してもどうということはないが、やるからには何とかちゃんと実がなるようにはしたいものだ。

電線上の声楽家

いりあひの杜の鶯ひとしきり

またまた「いりあひ」である。

夕刊を取りに出るとあの「帰りましょう」放送。
ゴーホームどころか間もなく夕暮れだというのに、鎮守の森からは鶯の声が絶えない。もう「老鶯」といっていいくらいの鳴きっぷりでこの先が楽しみである。
最近は、名前からはほど遠く山中にまで進出しているという「イソヒヨドリ」も電線などによくとまっていて、毎日実に佳い声を聞かせてくれる。鶯が鳴けば競うようにイソヒヨドリも鳴く。ともに素晴らしい声楽家である。

太公望

釣堀の中り遠のき春の昼

釣り好きは概して気短である。

あるいはマメな性格といっていいだろう。気長な人に釣が好きだとか、うまいという人は聞いたことがない。
何故なら、釣というのは状況に応じて手を替え品を替えしなければなかなか釣れるものではないからだ。当日の魚のご機嫌に合わせて、餌を変えたり、仕掛けを替えたり、考えられる手はすべて打たないといけない。
これが、気長な人の場合、いったん仕掛けを沈めたらずっうとそのままただ待つだけのことが多い。浮子がびくともしなくとも、ただひたすら待つのである。
釣りのうまい人というのは、駄目だと思ったらすぐに仕掛けをあげて別のポイントを探ったり、深さを調節したり、とにかく一投ごとに何かを変えて様子を探っているのである。
だから集中力だってそんなに何時間ももつわけはない。
ましてや陽がすっかり昇り中りでも遠のいたりすれば、このうららかな春日和りにさそわれて、釣果などどうでもよくなりはしないだろうか。