生き残り作戦

草虱痛くもあり痒くもあり

センダン草かタウコギか。

いわゆる「くっつき虫」が今最盛期を迎えている。
まるでハリセンボンのように丸く全方位にヘアピンのような針を突きだしている。そっと毬を撫でるとくすぐったい感じもあるし、指の腹につんつんする感覚もある。
これが知らず知らずにシャツやズボンに触れると待ってましたと飛びついて運んでもらう。巧妙な生き残り作戦である。
そうはさせじと、毬のような針軍団を指でつまんで散らせてやった。しかしキリがないほど道路端に群れていて、犬などを散歩させるとまんまとその作戦に引っかかってしまいそうである。

日常

庭の葱抜きて夕餉の汁たらん

近くに葱などがあればこういうとき便利である。

命ぜられるまま懐中電灯を照らして葱を採りに行く。
昼間摘んできた間引き春菊と合わせれば即席の鍋の具となる。
少々暖かい十一月なので格別鍋が恋しいわけではないが、おあつらえ向きに人参、椎茸、白菜、糸コンの買い置きがある。
いつものように老い二人が向かい合って、たいした話題もないまま鍋をつつく時間が流れてゆく。
終われば誰が言うまでもなく一人が食器の後片付け、洗いに向かえば、もう一人は風呂の湯を張りにゆく。
だいたいは家人が風呂に入っているあいだノートパソコンに向かって今日の一句を考えている。
そして、そのあと風呂から出れば一時間ほどで床に入る。これがいつもの日常である。

悪くない

逆光に金波さわさわ枯芒

今の時期の芒は逆光にかぎる。

穂先が金色に輝いて見えるのは、狐などの動物の和毛が微細なものまでくっきりと浮かんで生き生きと見えるのに似ている。
今日はバイクで走っていて、逆光の芒が目に飛び込んでくる一瞬の眩しい光景に出会うことができ、それは本当に美しいものだった。
何でもない光景だが、束の間のアートと言っていいようなシーンに心奪われ、こうして今でも記憶に残されているのも悪くないなと思うのである。

ライブ中継

初冬のおどろおどろに月の蝕

442年ぶりだと言う。

皆既月食に加えて月に天王星が隠れる天王星食が同時に起きるのは、1580年以来ということになるが当時はまさに戦国の極みにあったときで、当時の人はどういう反応をしたのだろうか。
現代はyoutubeで各地を結ぶライブ中継もあって、各天文台の望遠鏡を通しての画面もあり、いろいろ楽しめる時代となった。また、その画面を流れ星が横切ったりして生中継ならではのハプニングも愉しい。
それにしてもこの月の赤らみはどうだ。ふだんの姿からは思いもよらない凄味である。

補:正確には皆既月食+惑星食で、今回は天王星、400年前と300年先は土星だそうです。

添う

地平なき峡に冬立つ朝日かな

奈良の最低気温が六度だったとか。

当地もいつもより一枚多くはおる朝となった。明日の朝も十度を下るとか。
昼間はそうではないのだが、朝はもう冬と言っていい、秋と冬との端境にある期間かも知れない。夏の季語に「夜の秋」があって夏だが夜などは秋の兆しを感じることを言うが、今日などはさしずめ「朝の冬」というところだろうか。もっとも、「立冬」の日の朝を「今朝の冬」と言うのでそのような意味で用いられることはないが。
日中は気温があがるので朝に重ね着した一枚を脱いでもいいようなものだが、いったん羽織ってみたものはよほどのないかぎり脱ごうとは思わない。こうして、いったん厚着を覚えたら少々気温が上がろうがそのまま体が馴染んでいくのである。
自然とは喧嘩せず、自然に添いながら日を送る平穏が何よりである。

冬近し

羽二重の嬰のこぶしや冬隣
シャツのボタン首までかける冬隣

朝晩の気温差が大きい日が続く。

昼間は二十度くらいとなるのでまだまだ秋だと思うが、朝晩の冷え込みはもう冬がそこまで来ていると思われる。
暑い、暑いと言っていた夏だが、気がつけばいつの間にか立冬の七日は目の前に来ている。
長袖のシャツのボタンも首までかけなければ肌寒く感じるこのごろである。

天日

スコップに割れて悲しき落花生

落花生を掘った。

株が広がっていて思わぬところにも茎が伸びているようだ。
スコップで注意深く株ごと持ち上げたつもりでも、その思わぬところの実が真っ二つに割けてしまったのも出てくる。
が、しかし、おおむね豊作でしかも大粒が多く満足の出来である。
茹でたものを試食したら味も悪くない。
さいわい好天が続くので何日か天日に干せば保存もきくだろう。