雨を恋う

カブで来て出穂うながす稲の肥

田植が早かったのに出穂が遅い。

近所の田はどこを見渡してもいくぶん丈も低いようであるし、成長も遅れているような気がする。
水は溜池が機能しているので問題ないはずなので、やはり暑さがこたえているのだろうか。
ことしの稔りはどうなるのだろうか、気にかかるところである。
乾ききった菜園は鍬、スコップが立たず、秋の畝を準備する時期に来ているのだがまったく作業にかかれない。ひたすら雨を待つ日々である。

ほどほど

颱風の進路に期する土煙

盆地の中央部には南から北へ雨がよく通るようである。

一方で、北に生駒山地、東に法隆寺裏から続く矢田丘陵にはさまれ、南に大和川を接する三角地にあたる当町は雨雲のエアポケットであるらしい。県下に夕立の予報が出ていてもまず降らないとみていい。
これは、生駒山地と金剛山地の狭間を流れ大阪へぬける大和川がまるで鞴のような格好となり雨雲は吹きぬけてしまうのである。
だから当町の地理的な形はいわば風が渦を巻くように停滞するエリアなのである。
毎日のように奈良市内では激しい夕立や台風による雨が降るが、当町にはお呼びがかからない。
田はさいわいに山の水を溜めた貯水池があるので、特段の旱でもないかぎり困ることはないようである。
ニュースでは米どころ南魚沼では川の水を水源としている地域では、川の水流が細りあと二三日雨が来ないと稲は枯れてしまうという厳しい現実を見せられた。
温暖化現象というのは触れば土砂降り、降るところには降るが降らないところには降らない。ほどほどの水量というのは難しいようである。

臭い

注文の洋書届かず秋立てり

納期をとっくに過ぎたがまだ届かぬ。

輸入ものだからある程度は日数かかることは承知だが、予定の7月22日〜8月2日(これもかなりアバウトだが)を軽くオーバーしている。
掲句はかなり臭い句である。秋と書籍。
嗤ってください。
ともかく、一度催促してみるか。

ピーク過ぐ

昃りてかなかなもまた鳴きそむる

虫も人間も同じかなと思った。

昨日は曇りがちでそれまでの体温を超えるような高温から解放されたのであるが、加えて少しの風でも出てくると今日は涼しいなあとしみじみありがたく思う。
蜩も同じと見えて、谷筋に風が渡ると少し遠慮がちに鳴き始めたのである。私にとっては初蜩で、毎日の厳しい暑さの中にも秋が忍び込んできているのだ。
今日もよく晴れて日差しが強烈だが、一昨日までの息苦しさはない。今年の夏のピークを打ったのだと確信するのであった。

贈り贈られ

枝豆の走りの靑を届けけり

密な状態になってきたので、早めに収穫することにした。

実の入りで言えば七分の出来だが、それを割り引いても二人では食べきれない嵩がありそうだ。
そこで、いつもお世話になっている菜園仲間にもお裾分けとなる。
するとまたトマトなどのお返しがあったり。
夏野菜は今がピーク。ミニトマト、ピーマン類が冷蔵庫に収まりきれないくらい採れる。
そうなると、迷惑を承知で両隣のお家にもらっていただこうという話しになる。
帰省時のお土産などもいただくのでそのお返しという意味でもないが、それくらいしか思いつかないのである。

ラックを組む

北向きの藪に曲がれる竹を伐る

今どき竹を伐るということは滅多にないだろう。

竹といえば、子供の頃釣り竿、チャンバラの刀などいろんな遊びにさんざん使つたものだが、今の子供たちには遠い存在となったようである。
金属やプラスチックなどいろんな素材が開発されて竹にとって替わるようになり、竹自体の用途もかぎられてきている。
さいわい田舎で過ごしていると、誰が管理しているかもわからない竹林はいくらでも見かけるし、一本や二本くらいいただいてもだれも文句を言われない。
市民菜園でも適当な太さのものを伐ってきて、土留めや足場を組んだり、ちょっとした小屋の骨組みにしたりしている。
今日はいつもお世話になっているご老体が支柱用に竹を伐りたいというので、お手伝いをしたついでに自分用にも二、三本頂くことにした。農具をしまうラックでも組もうというわけだが、さてどこに据えればいいか。これから考えることとしよう。
ところで、季語は「竹を伐る」だが、これは昔から「竹八月に木六月」と言い、陰暦の八月が竹、六月が木の伐採の好期とされ、陽暦に換算すると九月以降十月頃くらいまでが竹の伐り時だ。竹の子が成長してたあとすっかり大人になるころと言えよう。

共同作業

爺鋏婆は籠もて柿を取る

通るたび見とれてしまう柿の木がある。

この家の生り年、裏年というのは次元がちがうのである。
今年の驚異的な生りようから、去年は裏年であったことが分かるが、それさえも一般家庭の生り年を大幅に上回るできだったのである。
今年も老夫婦が共同して柿を収穫していたが、一枝に十個は軽い成りなのである。二人で毎日十個ずつ食べても年内にはとうてい終わらないほどの圧倒的な数である。洗濯物を入れるような籠に収穫していたが、あれではいくつあっても足りないレベルなのである。
おそらく子供や孫、知人などにもお裾分けされると思われるが、それでも余ってしまうに違いない。
いったいどう剪定すればこんなに生るのだろうか。いつも枝振りを観察するのだがよくは分からない。
分かっているのは、収穫しやすいように木を高くしないということ。元気な徒長枝でもせいぜい高鋏が届く範囲にとどめるように仕上げてある。それは高齢の主人をおもんぱかってのことであろう。
通りから眺められる庭木を見てもプロの植木屋が手がけているのは一目瞭然なので、この一本のコンパクトでいて充実した枝振りの木も職人の技である。
我が家の柿の木も去年から整形の途上であるので、参考になればと眺めるのだが勘所がつかめないのがもどかしい。プロの技の所以たるところであろうか。