セカンドオピニオン

爪切はなまくらにして花曇

最近爪がよく割れたり欠けたりする。

加齢が原因かと思われるが、よく考えればよく切れない爪切を我慢して使っているのもその一因ではないかと思うようになった。
自分では切れないことはないと思っているのだが、家人などに言わせるととても使える代物ではないらしい。
このほど帰省していた子供に貸したところ、全然切れないと突き返された。
あらためてしげしげと爪切りを眺めるのだが、なんとか馴染んで使い慣れているとそんなに不便なものではない。かと言って、第三者がそう言うのだからやはり切れない爪切なんだろう。
そう考えると、爪切り後やすりをかけてもざらざらひっかかるところがあって、そこから割れや欠けにつながることが多い。
なまくらな爪切りを前に気が重い曇り空がしばらく続くときた。

車窓の桜

リハビリの院の外なる花の雨

各ホームから送迎の車がひっきりなしにやってくる。

ここは総合医のクリニックで町のあちこちの老人施設からの受診者が目立つ。
ちょうど近所の桜並木も開き始めて三分咲きというところか。
不自由な身ながら院への行き帰り、車窓からの桜が楽しめたりすると医院通いも苦じゃなくなるにちがいない。
今日は三カ所ある駐車場がどこも満杯で、さてはきのうWBC観戦で休んだひとが大挙押しかけてきたんじゃなかろうかと思える。

サムライ

亀鳴くやビデオ二度見の勝ゲーム

昨日今日とすごい試合が見られた。

準決勝サヨナラ勝利に続く今日の手に汗握る決勝戦。
年俸400億円のドリームチームを破っての優勝に喝采を送りたい。
とくに若い投手たちがビッグネームにおじず真っ向勝負に挑んでねじ伏せたのは見事である。
優勝の興奮がさめやらないまま延々と放送が続くので何度も何度も見どころを見せられたわけだが、不思議にこういうものにはいつまでも余韻に浸ったまま鬱陶しくはならないようである。
40数パーセントも視聴率を稼ぐ野球というのは、やはり日本人にとって国技にも近い人気のあるスポーツであることをあらためて証明したわけだが、なにかと分断された、社会をおおう重い空気をしばし忘れさせてくれたと言えようか。
いいものを見せてもらったサムライ戦士にお礼を言いたい。

主役交代

都へとわが子をやれば初桜

連休を利用して一時帰省していた二女がくしくも開花宣言のあった日の奈良をあとにした。

帰途の情報がつぎつぎとLINEを通じて入り、すでに寝入っていた家人は何度も起こされたようである。
一方の私はといえば白河夜舟状態で朝になるまで気がつかず仕舞い。
とまれ長旅を無事に着いたのは何よりだった。
おりしも菜種梅雨前線が出張ってきてこれからしばらくぐずつく天気が続くだろうが、おおむね暖かい日が待っているようで桜は十分楽しめそうである。
花粉の主役は杉から檜に代わりつつあるようで、油断はおさおさ怠れないが。

花幻忌

水面へと被爆柳の芽ぐみけり

被曝樹木でいまも健在な木は意外に多い。

広島市のホームページでは市内に90本ほど。復興にあたって移植されたものも多いが、当時の位置にそのまま永らえているものもまた多い。樹木の種類はさまざま。柳、桜、銀杏などの落葉樹、黒松、楠などの常緑樹、蘇鉄、蜜柑など多岐にわたる。
今日こんなことを書いているのは、ウクライナ侵略で核使用をちらつかせるロシア、あるいは北朝鮮の核ミサイル開発にかけるスピードなど、きな臭い世相に底知れない恐怖を覚えるからである。
今日の句会の兼題「木の芽」を詠むにあたり、真っ先に頭に浮かんだのが被曝樹木で、句会へは、

芽ぐむなる被曝柳や民喜の碑

を出したのだが、原爆ドーム前におかれた被爆詩人原民喜の碑文は自死の遺書に添えられたものとされるが、原爆を詠んだものにしては悲しいほどに美しい詩に惹かれたからである。

遠き日の石に刻み
砂に影おち   
崩れ墜つ 天地のまなか  
一輪の花の幻

ここから11月の民喜の命日は花幻忌と呼ばれるそうである。
被爆柳が水面に向け芽ぐみ始めるのは、水を求めて人々がさまよった過ぎし日の無念と重なるような思いがする。

休息場

春の水たたへ用水池青し

たえまなく流れ込んでいる。

溜池の水位は今年も安定しているようである。ゆたかな池の中央にいくほど青さがまして美しい。
静かな水面にはただ一羽だけ鴨が羽根を休めている。帰るにはまだ早いのだろう。
やがてあと一か月もすれば鳥たちの姿は見られなくなるはずである。
冬から春にかけて渡りの鳥たちの休息場になっていた池は、梅雨入りする頃までには満水になって下の田をうるおす。大和川へ還すまでしばらくお山にふった雨をあずかっているのである。

南半分

春の山踏んでたもとを大和川

起伏が多い町。

平になったかと思うとそこはもう大和川にしがみつくような狭い街である。
街の大部分が信貴山とそれにに連なる山地のふもとにあると言っていい。だから山を踏むなどとオーバーな言い方などせずとも、街を歩けばすべて春の山を踏んでるようなものなのである。
ちょっと小高いところに出れば盆地の半分以上は望めるし、足もとには盆地の川という川を集めた大和川が悠然とながれるさまが眺められる。
盆地の半分と言うのは、ちょうど法隆寺から矢田丘陵にかけての山陵が視界を遮っていて北側半分がまったく陰になっているからである。だが、南半分だけでも大三山はじめ二上山、吉野山、多武峰、音羽三山、見通しのいい日には県境の高見山まで名だたる山々が見渡せる。
桜はまだだが今は雪柳も満開。街のいたるところで春の花が咲いている。