雨を恋う

プロの手の正しき樹形百日紅

日中あまり出歩かないので見る機会が少ない年である。

百日紅の乱れた姿というのは見るにも暑苦しい感じがするものだが、職人の手できちんと刈り込みのされたものとなると話しは別である。
枝の混むでなし、かといって貧弱でもなし。枝垂れかかった枝振りには逆に涼しささえ感じてしまうことがある。
ただ、庭木であれば毎日の水やりも欠かさずお世話もできるが、今年はとくに街路樹が可哀想なほどである。
隣町には夕立が来てもこちらは素通しされる日々が続き、人も動物も樹木も花も野菜もみなげんなりとしている。
いつになったらお湿りがあるのか。

四面クマ

落蝉のつまめばぶると一度きり

この朝舗道に蝉が腹を見せて転がっていた。

そのままでは灼熱のコンクリートに焼かれて塵となるのも可哀想と思い、拾おうとしたらぶるっと一度だけ震えた。最後の力をふりしぼって抵抗したのだろう。そのまま手にのせて近くの茂みにそっと横たえてやった。鳥がめざとく見つけて持って行くかもしれないが、できれば五体が無事に土に還ることを願って。
今日も朝から顔の高さにも四面熊蝉だらけである。
この落ち蝉が今年初めて見る油蝉であったことになぜかほっとした。

ここ一番の

世事遠き身にもしらるれ鰻の日

故郷の名産の鰻真空パックをいただいた。

今日は土用の丑にあたるので、この滋養に富むといわれる鰻が食卓にのぼった。
ことしほど土用というものと、その暑さとの結びつきを身に沁みて感じたことはないのでまことにありがたくいただくことができた。
何もしていなければとても出かける気にもならない暑さでも、毎日必ず菜園へでて大汗をかくことができるのも、健康であるたまもの。
この日日蓮宗のお寺では焙烙灸と呼ばれる、頭に鉢を担いでお灸を受ける、いわゆる土用灸という慣わしがあるそうである。これも、夏の土用にお灸をすえると効き目がいいと言われ、ここ一番がんばらなければならない時期の滋養獲得のならわしであろうか。

カラカラ

片陰を出ろと電柱仁王立

少しでも陰にいたい。

そんな日が延々と続く。永遠に続くのではないかとさえ思える。長期予報では10月も気温は高いという。
今年も秋は短く暑い暑いと言ってるうちにあっという間に冬がやって来そうだ。
人と会えば交わす言葉が申し合わせたように「暑いですねえ」。
暑い上に天の恵みの水もなく、胡瓜もトマトもどんどん終わりの時期を迎えてきた。茄子も秋に備えて早々と更新剪定。
干からびてカラカラの畑は見たくないものだ。

くずれる

雲の峰くずれ流れて昼の月

じっと観察することはまずない。

しかし、また顔を上げてみると意外に入道雲はいろいろ姿形そして位置を変えていることにきづく。
今日はその入道雲が流れた跡に上弦の月がこうこうと輝いているのを発見。
どんどん変化してゆく雲に対して月は揺るぎもせず東の空に浮かんでいる。
しばらくしてまた顔を上げると、さっきの入道雲はすっかりくずれて姿を消し、代わって二本の入道雲がもくもくと立ち上がってきた。月はその間にあって、暮れなずもうとする空に存在感を増すように輝いていた。

常態化

衛星で雨なきを知る油照

精細な情報が得られるのは嬉しいが。

気象衛星のおかげで、雨雲レーダーの動きも詠め素人でもそこそこの予想はできるようになった。
レーダー情報がなくてもおおまかな気圧配置をみるだけでも、当分涼しい日はやってくることはなさそうだ。
来月の展望も出て、上中下旬とも平年より高気温だそうである。まったく、そうであろう。
下手すれば台風が来ないかぎり雨も降らなかったり、旱の夏を怖れる。
大阪北部では40度寸前まで気温が上がったそうである。観測の気温は白く塗られた百葉箱の日射があたらない内部の気温のことだから、実際に感じる体感温度とは数度の違いが出る。ということは、大阪北部では最低でも42度近く、長くは野外で立っていられないレベルである。
命にかかわる夏の暑さ。これが今後も常態化するかと思うと、子世代、孫世代の苛酷さを考えずにはいられなくなる。

さまよう

甜瓜まくはうりはみて遠き日生ぬるし

西瓜が秋で、真桑瓜が夏。

感覚的にはどちらも夏だと思うが、歳時記ではそうなっている。
想像だが、西瓜は盆や七夕の供物として珍重されていたからではないかと思われる。
今年は大小の西瓜に加えて真桑瓜も育てたが、真桑というのは食べ時の見極めが難しく、気づいたら熟しすぎて溶けそうになるほどずるずるになってしまうことがある。今回も十個近く生ったが、西瓜に比べてありがたみが少ないわけかなおざりにしてしまった。辛うじて食べられるものだけを持ち帰ったが、やはり歯ごたえのないものだった。
その昔たいして冷えてないものを食べたことを思い出して、記憶は遠い過去をさまようのだった。