江戸しぐさ

紫陽花やどちらともなく傘かしげ

今頃は明月院の石段の両側は見事な紫陽花に飾られていることだろう。

紫陽花は雨が似合うとはいうものの、この石段で注意しなくてはいけないのは他人への思いやり。傘をさしたまま行き交うには狭すぎるので、ただでさえ花が雨露をふくんで重く垂れていたりして、さらに裾が濡れてしまうからだ。
江戸しぐさのひとつともいえる「傘かしげ」など今ではもう忘れられてしまったように思うが、ときにどちらからともなく、さりげなく行われたりすると、ああまだ大丈夫だと安心するのである。

当地でも紫陽花の名所は多いが、矢田丘陵の矢田寺あたりは近くて一度は行ってみたいところだ。

幻聴か

うばたまの闇を聞きなす時鳥
不如歸夢のうつつを醒ましけり
杜鵑寝覚めの耳にまろびけり
聞きなしを寝覚めの床に霍公鳥

それは不思議な感覚だった。

昨夜、というより今日の未明だと思うが、夜中の微かな意識の中にまぎれもなくホトトギスの声が聞こえてくるのだ。幻聴ではないと確信するが、暑くて窓を開け放っているので聞こえたのだろうか。
果たして夜中の何時頃だったのか、それすら覚束ないほどの意識のなかで何度も何度もホトトギスの声だけが聞こえてくるのだ。
「ああ、まだこの近くにいるんだな」と思ったのもつかの間、すぐに眠りに落ちていったようで目覚めたのはいつもの時刻だった。

蜜蜂

供へばや泰山木の花を香を
花あひのうごめく虫や泰山木

礼堂の間の通路(馬道)を抜けると宝蔵のある庭に出る。
泰山木の花
その一画に背の低い泰山木の木があり、おりしも花の時期とあって吟行仲間が吸い寄せられるようにして花のまわりに集まっている。ちょうど顔の高さにあるものがあっていい香りを放っている。こんな間近に目にすることは滅多にないので、顔を近づけて嗅いだり、手にとって花弁の感触を確かめたり、カメラに撮るものもいたりする。
この花というのは、普通なら見上げるような高い位置に咲くので花心など滅多に見られないが、今日は手に取るように分かる。大ぶりな花心に蜜蜂も何匹か同時に群がっていたりもする。

講堂の陰で

足元に未央柳と教へらる

黄の高さは一メートルもないだろう。

大伽藍、講堂に見とれていて、うっかりすると見落としそうな場所に、吟行仲間の人々が口々に「未央柳(びようやなぎ)」と足を止める。ぴんと伸びた雄しべが特徴で、名も姿もいかにも中国から渡ってきたような花だ。先々週多武峰のハイキングで教わった金糸梅によく似ているが、やっぱり未央柳は雄しべがよく目立つので間違うことはないだろう。

戒律道場の威厳

大修理終へし伽藍や風薫る

まさに堂々たる金堂である。

エンタシスの柱は接ぎ跡だらけだが、少しも古さを感じさせず、どっしりとした安定感は少しも損なわれることはない。
大修理というと、新しい姫路城が真っ白にお化粧直しされたように、ときに部材の新しさが目立ったりするものだが、ここ唐招提寺ではあたかも1,300年前のものがそのまま古びてそこにあるという印象だ。
まことに戒律道場に相応しい佇まいは大変好ましく思える。

開山堂舎利会

身代わりの像の尊し青葉風
開山堂青葉映せる玻璃戸かな

今日6月6日は鑑真忌。

唐招提寺では「開山忌舎利会」と称して和上が請来した舎利を奉り、和上の徳を偲ぶ法要が営まれる。
この期間は3日間ほど国宝の鑑真和上像が公開されるが、普段は昨年完成した身代わり像を開山堂で拝顔することができる。
今年は句会があった日の翌日から特別公開だったようで、一日違いで残念なことであった。ただ、身代わり像は本物そっくりに模して造られており、袈裟の緋もいまだ鮮やかにのこっているのは驚きだった。開山堂ではガラス戸の向こうに全体がよく見えるようにお座りになっておられ、そのガラス戸には偏光フィルムを貼ってあるようで、外の眩しい光にもかかわらずクリアに見える。

玄関脇の

実入りよき米粒めきて花南天

蕾の初期の頃はまるで白い米粒のようである。

玄関脇の南天が、長い時間の経過とともにやがてうっすらと朱がさしてきたのが、ようやく今日あたり雄しべの黄が混じるようになった。開花である。

この春教えられたとおり、伸び放題だった南天を軽く剪定したら風通しがよくなったようでどの枝もいっぱい蕾がつくようになった。このまま順調にいけば見事な実南天が期待できそうだ。