臨時早退

日もすがら沙羅の落花の腐し雨

一日花だから毎日咲いてはこぼれてゆく。

そういう性格の花だが、この豪雨にたたかれていつもより多くこぼれ色あせてゆく。
まさに諸行無常の象徴だが、雨となるとひときわその重いを強くする。
今日は朝から大雨、洪水、土砂崩れ警報が出て、当町では高齢者は避難するよう防災放送があったり、スマホの災害警報がけたたましく鳴ったり、いやはや騒々しい日であった。
さいわい、数時間で解除されたが、当町はとりわけ大和川に近い地域は何度も浸水の被害にあっているし、崖の多い地区もあるので、役場の人たち、消防団、そして介護施設職員なども大変なことである。
共稼ぎの隣家には小学生のお子たちがいるが、午前中に早々と休校となったなったようで、先生たちに連れられて帰ってきた。上の子はもう高学年なので留守をしっかり守っているようだった。このようにして、昼間親御さんの居ない家庭の子供たちはたくましく育ってゆくのにちがいない。

梅雨入りさまさま

兼業のけふは畦塗アダプター

鍬を器用に使った畔塗りというのをめっきり見なくなった。

畔には波板を立てて水漏れを防ぐのもよく見る光景だが、耕耘機に畦塗り用のアダプターを取り付けてまたたくまに畔のトップと壁を一気に整える方法もあるようである。
一枚の田を塗るのにおそらく一時間もかけずに済ますという、徹底した省力化が可能なのである。
鍬で丁寧に塗られたものに対して、はたしてどこまで機能するのかは知らない。土竜のトンネルからよく水が洩れてくるようだが、これは手塗りでも防ぐことはできないはずだから、傍から見ているだけでは何とも分からないというのが正直なところだが、そこそこいけてるのではないだろうか。
盆地を走っていると代掻きも終わった田がいくつも見られるから、今年の盆地は田植えが早いのかもしれない。梅雨入りさまさまであろう。

一日30分

梅雨晴の髪かき上ぐる鏡かな

バリカンで髪を切るのにも馴れてきた。

今では30分もかからずほとんど手前バリカンで刈ることができるようになった。家人の髪も虎刈りせずにわりにスムーズにできるようになったし。さすがに項の生え際を切りそろえるのは家人任せになるが、左右バランスも悪くはなくて悦に入っている。
ただ、刈った後の始末で我ながらためいきが出るのはそのボリュームの差である。家人のはむしろ黒さも増したような気さえするうえに、こちとらとくれば掃いて集めてもこれっきり?というくらいに貧弱なのである。
さらに、遊びでVOAのリスニングテスト受けてみれば、初心者クラスと診断されてレベル1からやるのがいいと言われる始末。かつてTOEICで750点以上取れていたころのあの耳はいったいどこへ行ったのか。
くやしいので、いちから出直しのつもりでリスニングを鍛えてみようと思う。教材を手許に一日一句ならぬ一日30分を当てようかと考えている。

梅雨の晴れ間に

十薬の喜ぶ雨の来たりけり

隣に家が建って半日陰の場所ができた。

おまけに茂り放題の梅の蔭にもなるあたりに、初めてドクダミが咲いたのが見つかった。梅雨の到来を近いことを知らせる花であったのだ。
陰湿な場所にはびこるとは知っていたが、かくも正直に根づくものなのか驚いている。いったい種はどこから飛んでくるのだろうか、あるいは土中には雌伏の時をおいてチャンスを待っていたのか。自然界はまことにかくもうまくできていると感心するが、感心ばかりはしてられない。放っておけば地下茎を伸ばして来年さらに広がることは目に見えているので、風がよく通るよう庭を片付けなければならない。
梅雨の晴れ間はなにかと忙しいが、さらに一仕事加わるようでやれやれである。

剪り花

長雨のつぼみに重き四葩かな

五月に梅雨入りするのは十年ぶりらしい。

ということは以前にもあったということで、梅雨入りは六月という既成概念がこの十年で打ち砕かれた感じがする。もしかすれば例外的に早い梅雨入りというのが遡ればあるかもしれないが。
この週間予報では梅雨の前触れ程度にしか考えてなかったので、いきなりの宣言には正直参ったなあというところである。
梅雨の準備も整わぬうちにこれから二月ほどムシムシジメジメとした日々が続くかと思うと憂鬱になるが、いっぽうで雨を滋養とする紫陽花などの草花などが暗い庭の片隅に彩りを添えてくれるのであるから、それはそれでいいものではあるが。
その紫陽花もいまだつぼみで、開くにはいま少し時間がありそうである。今年は順調につぼみを着けているようだから剪り花にしてもいいかもしれない。

競演

遠時鳥とかく失せ物多し

昨日、今日と連続して遠くの時鳥を聞いた。

信貴山下の棚田一帯を渡り啼いているようだ。時間は午後遅い時間。深夜啼くことがあるし、活動時間帯は想像もつかずまるで忍者みたいな鳥である。
いっぽう近くの両岸が竹林に囲まれた川では、日がな一日鶯が啼いていて両者のハーモニーはこの時期だけの自然の贈りものである。
明日から雨が続くというので菜園の雨対策のほかサツマイモの苗挿しも何とか間に合わせることができた。
あれもこれもとやることのある一方で、鶯と時鳥の競演。それらに気をとられているとこれまたあれこれ忘れ物したり、失せ物探しにうろうろしたり。いやはや、あわただしい日であった。

手に汗握る

水入りははるか夏場所終はりけり

いつの間にか始まって、いつの間にか終わっていた。

モンゴル力士ばかりが強い印象で最近ではすっかり興味も薄れてしまっているが、もうひとつ相撲が面白くなくなったのは技と技とのぶつかり合いという試合が見られなくなったこともある。立ったと思ったら一瞬でカタがついている相撲が増えて、手に汗握るというシーンがすっかり姿を消して、面白さというものに欠けてきたのである。
栃錦、若乃花の時代、よく水入りの勝負を見たものだが、今では一分を超す勝負はほとんど見られなくなった。それだけスピードの相撲という時代に変化したわけで、怪我による欠場が多いのもむべなるかなである。
毎回のように大関カド番が話題になるような相撲はほんとうに面白いのだろうか。