山椒の香も添えて

筍の雨後の泥つけ引かれけり

包丁がすっと入った。

孟宗のそれはそれは太いやつだったので、俎に思い切り押さえつけて刃を入れたら、これが以外にさくっと切れたので拍子抜けしてしまった。雨後にぐんと伸びた直後だったのかもしれない。
というのは、これは毎年、背後の信貴山中の竹林から採ってきたのをお裾分けにいただくものだが、今年は猪の出没に身の危険を感じながら掘った貴重なもので、猪が見逃した数少ないものの一本だからである。
雨後の短い時間に伸びた筍は、猪だって食べるに追いつかなかった証拠であろうか。
あまりにも大きくて鍋に入りきれないので、頼まれて真ん中で割ったのが冒頭のシーンである。

今日掘ったものだから、刺身でもいけるかもしれないが、いつものとおり一緒にいただいた糠でさっそくアク抜きだ。
鉢の山椒もいまは小粒な若葉で香しい。
たっぷりふりかけていただくとしよう。

尾羽うちからし

一山の弁天池にかはせみ来

観光客はだれもが国宝の塔に興味が向いているので、山内の小さな池には興味をもたない。

ただ、かはせみフリークの身には一声ですぐに気づくのだった。
振り向くと、池に突きだした弁天堂のあしもとの細枝に翡翠が隠れたようだ。
雄雌の判別はつかなかったが、この時期は、恋愛時期にあたり、だいたい雌が雄のテリトリーを訪ねて配偶者として適しているかチェックするのだ。
まずは餌をちゃんと取ってくる甲斐性があるかどうかが決め手で、ただ求愛をせまるだけではだめなのである。人間よりはよほど現実的なようである。
職員にたずねてもこの池で翡翠を目撃したひとはあまりいないようだった。
東大寺裏手に大きな溜池がいくつかあって何回か目撃しているので、そちらからやってきた可能性が大きいとみた。
翡翠は夏の季語であるが、求愛の仕草といい、子育ての特徴といい、春のほうがみどころは多い。初夏は、雛まつりといって、巣穴から出てきたばかりの雛たちが枝に何羽も並んで親から餌をもらうシーンが人気だ。八月から九月頃まで、何度も卵を生んでは子を巣立ちさせる。
子育て中の親、とくに雄は餌取りに追われて文字通り尾羽うちからして、気の毒なくらい惨めな姿で同情を禁じ得ないのである。
父ちゃん、がんばれ。

おどろのもの

あらためて昼見る花の烏瓜
白昼のおどろに咲いて烏瓜

この世の花とは信じがたいものがある。

初めて見たときの気味悪さというのはない。まるで粘菌のお化けのようだ。
これがあの烏瓜の花だと聞いて唸ってしまった。
烏瓜は、どちらかといえば、荒れた土地の、周りの葉が枯れる頃に赤い実を晒すことが多いので、このように真っ昼間から、白昼堂々と眼前に顔を出されればどのように対処していいのか戸惑ってしまうのである。
きのこ菌がアメーバのように四方八方に伸びたような姿は、どうみても日陰の身であるべきである。夜に咲くとは聞いていたが、お天道様の前でも我が物顔というのはなかなかしぶとい輩である。
しかも、もう仲秋になろうかという時期である。
澄んだ季節に、おどろおどろしたものはいただけない。

温故知新

富める家の庭人知れず灸花
へくそかづら卑しからざる飛鳥かな
飛鳥いま電柱地下に灸花

夏の季語はまだごろごろと見られた。

この灸花(へくそかづら)もそのひとつ。
りっぱな構えの家だと思ったが、フェンスにはほつほつと灸花が咲いている。
触りさえしなければ、可憐な花だが、名前があまりにも悲しい。
ただ、飛鳥に来るといつも思うのだが、見えるもの、触れるものすべてがどこか懐かしく、逆にこの花などは名前とは裏腹に愛おしいばかりに可憐に思われてくる。
飛鳥は古い都址だが、行くたびに新しい発見がある。

見上げるような神杉

つくばねの羽根生え初めて宮涼し

衝羽根の実というのを初めて見た。

無患子の実が追羽根の玉となるのに対し,実自身が4枚の羽根をもった衝羽根の形をしているのである。大河ドラマのタイトルバックに用いられているように、秋になると枝から離れてヘリコプターのように空を舞う。
丹生川上神社の境内に茨木和生(運河主宰)の句碑「こっぽりの子が衝羽根の実を拾ふ」があり、そこから顔を上げると衝羽根の実をつける木があった。といっても、宿り木であるらしいのだが。
樹齢千年を越えようかという大木の神杉もあり、川音も聞こえてくる宮を吹く風はすこぶる涼しい。
あらためてもう一度ゆっくり来てみたいと思った。

罔象女神

みよしのの岩まで碧く水澄める
水神にすは雷神の来意かな

盆地と違って東吉野は涼しかった。

なにより、高見川に代表される川のそばの爽やかさには救われた。
とくに、今回初めて丹生川上神社(中社)まで足を伸ばしたことは大成功だった。
この神社は古代の離宮跡に創建されていて、近くには雄略天皇にまつわる伝説の名をもつ集落もあって、大変古い歴史をもつことに驚く。
祭神は「罔象女神(みづはのめのかみ)」で、いわゆる水神である。天武のときに社として起こしたのが始まりで水を扱う業者、電力会社、製氷会社、氷菓会社などの信徳が篤い。宮のすぐ前を水量豊富な丹生川が流れており、いかにも神域にふさわしい場所である。「丹生」とは水銀が産する場所を示すが、上社、下社もあって果たしてここがそうだったのかどうか、白州正子あるいは司馬遼太郎の著作でも読めば分かるかもしれない。

二句目は作ったような句だが、実際に神社を散策していると雷さまがとどろき、いまにも雨が降ってくるのではないかと思わせる雲行きになってきたのを詠んでみたもの。さいわい数回谷に響いただけでどこかへ行ってくれたのだが。

乾いた音

八月六日鐘鳴らす町ならぬ町
風炎の山吹き降ろし原爆忌

朝の一仕事が終わって一息ついていると放送があった。

行政の無線放送だ。テレビの中継に2秒ほど遅れるタイムラグがあるところは愛嬌だが、町民に黙祷を呼びかけている。
町によってはチャイムであったりするようだが、当町はどうやら広島の鐘の録音じゃないかと思えるような乾いた音に聞こえた。
それぞれの自治体ごとにこの日を悼むやり方があっていい。
個人もまた、それぞれのやり方で向かい合うがよいと思う。