豊年や朝な夕なにのぼる茄子
菜園の茄子が本格的な収穫時期を迎えた。
この時期南瓜の人工授粉もするので毎朝の行事なのだが、採れるときには五つも六つにもなるのでスーパーの袋片手に畑に出かけることにしている。庭では胡瓜も植えてあってこいつも収穫の最盛期。ふだん塩分を控えているので漬け物類はあまり食べないのだが、この時期だけは塩もみや塩昆布漬けの胡瓜、茄子のオンパレードである。

めざせ5000句。1年365句として15年。。。
豊年や朝な夕なにのぼる茄子
菜園の茄子が本格的な収穫時期を迎えた。
この時期南瓜の人工授粉もするので毎朝の行事なのだが、採れるときには五つも六つにもなるのでスーパーの袋片手に畑に出かけることにしている。庭では胡瓜も植えてあってこいつも収穫の最盛期。ふだん塩分を控えているので漬け物類はあまり食べないのだが、この時期だけは塩もみや塩昆布漬けの胡瓜、茄子のオンパレードである。
捨苗に代へたる株の幼げに
捨て苗あるいは余り苗とは、旨く根付かない苗が出た時等のために田植えの際余った苗を田圃の隅に植えておくものをいう。
今日初めてそれが用いられる場面を見た。風か何かで飛んできた大きなゴミを取り除いたあと、痛んだ株の代わりの捨て苗が植えられたのだ。余り苗というのはたいていはひとかたまりになって植えられているので、ちゃんと田植えされたものより発育がよくない。だから、捨て苗に植え替えられた一画は背が低いというのだ。
なにかしら理屈っぽい句だが、より田に近い環境で暮らしているからこそ詠める句だと思う。
南天の花揺るるともなく散りぬ
花は白かった。
南天の花だ。正確には花ではなく苞なのだが。若木、というより苗といったほうがいいかもしれないが、を玄関先に植えたものが背丈70センチにまで成長し、今年はじめて花をつけたのだ。花(実際は苞)は白いけど実は紅くなるはずだ。このままうまくいくと、この冬にはあの鮮やかな色の実が見られるかもしれないと思えば、今から楽しみである。
幹の先端に「花序」という枝をのぼし、それらの小枝には小さな米粒のような形をした苞がいっぱいについている。やがて苞が割けて黄色い花を見せるのだが、そのころには苞が南天の細かい葉にいっぱい散ってさらに賑やかになる。
アーケイド抜けてひろげる日傘かな
日中の暑いときに商店街のアーケイドに入るとほっとすることがある。
天井が高いのもその理由の一つだが、なにより太陽の日差しが遮られるし、通りに開かれた冷房の効いた各店からの冷たい空気が流れているせいもあるのだろう。
日傘や雨傘をさしているとき、アーケイドの入り口でちゃんとたたんで出口でまた開く人もある一方で、閉じないでそのままさしたままの人もいてそれぞれ様々だ。ただ、混雑した通りではやはり傘はたたんでもらいたいものだ。
旱とて迷い出にける鼬鼠かな
朝、畑に入ると慌てたように逃げ去る小動物を見た。
どうやら鼬鼠のようだ。菜園仲間によると野ウサギなどもやって来るという話なので、べつに鼬鼠が居たって全然おかしくない。ただ、本来は夜行性であるのに陽がのぼってからも畑にいたということは、日照り続きで田の水も少なかったりして好物の蛙などが少なく行動範囲を広げているのかもしれない。
あるいは、土中に連絡路などを掘って隠れているのが、この暑さでトンネル内の温度が上がり、むしろ地上のほうが涼しくて快適だったのかもしれないが。
ところで、鼬鼠は冬の季語である。おそらく、あの毛皮ゆえのことだろうと思うのだが。
夏の蝶低みに卵産みにけり
庭にアゲハチョウがふらふら飛んできた。
飛んできて、柚やレモンの木のまわりをやはりゆらゆら舞っている。夕方調べてみると、去年より古い葉にもいっぱい卵を産みつけているようだ。
普通なら孵化した幼虫が食べやすいように、今年芽吹いた柔らかい葉に産みつけるはずなのに。よほど葉を選んでられないくらい弱っていたのかもしれない。ここにも早い真夏の到来の犠牲者がいたのだ。
梅の実の知らず成りたる三つ四つ
梅の実の採られざるまま落ちにけり
ひとの手の触れざるままに梅実朽つ
先日気がついたのだが、庭の花梅の根元に実が三つほど落ちていた。
2個ほどは成ってるなとは思っていたが、実際に落ちていたのが三つだったし、今朝はさらに一個落ちていた。つごう四個も成っていたなんて全く気がつかなかったのである。
もともと実がなることを期待したわけではなくても、いざ成ってみると愛しいものでときどきは眺めてはいたが、それでも収穫するほどの量でもないし放置していたのだが。じっさいに旱が半月以上つずき、しかも連日熱暑だったせいか、自然に落ちたものと思うが、すでに最初に落ちた3個はだんだんと青梅の色を失いつつある。